「さよなら死刑囚(1)」(2022年09月07日)

1855年4月5日、ランカスビトゥンの町にある大広場を早朝からたくさんの人間が埋
めていた。南バンテンからタングランそしてボゴール一帯の地元民を震え上がらせていた
強盗団の首領がその日、処刑されるのである。

普段は普通の村民として、何食わぬ顔で暮らしている男たちの中に、集合の指令がかかる
とおっとり刀で集まってくる者が40人もいる強盗団なのだ。かれらが夜中にどこかの村
の金持ちの家を襲うとき、標的にされた家の者は逃げるしか術はない。抵抗すれば殺され
るだけであり、しかも家の中にある金目の品は根こそぎ奪われて家屋に火がかけられるの
が常道になっていたのだから。

そんな集団に対抗できる人数の用心棒部隊を雇って常日頃から家の周囲を警戒させるよう
なことが、たとえ大金持ちであったとしても一介の市民にできるわけがない。ましてやそ
の時代、村々は慣習法に従って住民自治を実践する傾向が強かったから、公的な警察機構
が村落内の治安に立ち入る姿勢はきわめて弱かったと言えるだろう。事件を起こした人間
を逮捕して国法の前に引き据えるのが警察の仕事であり、住民の秩序安寧を司る立場には
なかったというのが原則論で、つまりは警察にとって楽な時代だったということになるの
かもしれない。


広場の一画に設けられた絞首台の階段をアラフォーの男が上っていく。男の両耳はそぎ落
とされており、額にはT字の傷跡がくっきりと浮かんでいる。男が階段を上り始めると、
広場を埋めた群衆の間にどよめきが起こった。歓声を上げる者もあれば、またあちこちか
ら口々に叫ぶ声も聞こえた。「さようなら、チョナッ!」

1900年に出版されたF.D.J.パゲマナンPangemanannの名作Tjerita Si Tjonat(チョナ
ッ物語)は、このひとりの大悪党の生涯を描いたものだ。世の中を震撼させた大悪党も最
期には絞首台の露と消えたのである。チョナッはウイ・タンバッシアのような芝居っ気を
持っていなかったようだ。

そんな極悪人の死に往く姿を見に集まってきた群衆の中にもしもあなたが混じっていたと
仮定して、あなたは果たしてそんな死刑囚に「さようなら」と声をかける感性を持ってい
るだろうか?


1870年8月24日、ブカシのアルナルンalun-alunで一本の絞首棒に8人が並んで吊
り下げられる公開処刑が行われた。この処刑のためにたいへん長い棒が用意されたようで、
写真を見ると20人近く並べても混みあわないくらいの長さになっている。

広場の中ほどに高さ5メートルもの太い柱が二本立てられ、その上に長い棒がさし渡され
て、地上からはるかに高い位置に8人の身体が吊り下げられている。プロトコル進行関係
者、職務で立ち合いに来たひとびと、そして見物に来た市民たちが絞首棒の三方を取り巻
いて整然と並んでいる風景がその写真の中にある。

この日処刑された8人を植民地行政側はacht Tamboenmoordenaarsと呼んだ。Tamboenとは
今のブカシ県南北タンブン郡だ。この地域は私有地にされて、長い間華人プラナカンの一
族が大地主になっていた。古来、地主とは領主様のことだった。地主と領主は単に一文字
違いでしかない。ジャワ島では20世紀に入ってもまだ、地主=領主という時代が続いた。
領民は領主に年貢や労役を納める義務を負わされた。

基本的に私有地の域内は領主の私的権限下にあるため、国家や地域行政がその中を統御す
ることは困難であり、そんなことをすれば領主の統治権を犯すものと見られるのが常識だ
った。それを良いことにして悪辣過酷な領主が領民の生き血を絞っていた物語は枚挙にい
とまがないくらいだ。つまり私有地の領域内では地主が警察権や裁判権を振るっていたと
いうことになる。[ 続く ]