「さよなら死刑囚(2)」(2022年09月08日) オランダ語acht moordenaarsを8人の殺人鬼とセンセーショナルに訳しても差し支えない だろう。植民地行政はこの処刑をタンブンの8殺人鬼事件と呼んだが、8人まとめて吊り 下げたあまり例のなさそうなこの処刑も、新聞種になって騒がれるまでにいたらなかった らしい。その時代の新聞の中に、この事件の特集記事を組んだものはひとつもなかったそ うだ。 毎週水土の二回バタヴィアで発行されていたビンタンバラッ紙の1870年9月3日版に、 他の殺人事件と並んで簡単に処刑の記事が掲載されていた。その程度にしか扱われなかっ たのは、政庁の思惑が絡んでいたからだという見解が今では普通になっている。タンブン の大地主の苛斂誅求に耐えられなくなった領民が起こした反領主叛乱暴動ではあっても、 それは容易に反体制暴動に発展するのが当然だったのだから。 タンブンの私有地に住んで農耕を行っていた農民たちは普段から悲惨な暮らしを強いられ ていた。地主の定めた重い年貢は、不作の年にたちどころに借金に変化する。何年も借金 の返済ができないと、農耕作業に不可欠の水牛が代償として取り上げられた。いや、たと え借金などなくとも、水牛がいつ領主様に強奪されるかわかったものではないのだ。 植民地政庁は全国の農民を生かさぬよう殺さぬようにするため、かれらに義務付けられる 年貢の上限を定めていた。しかし、警察権も行政権も入ってこない私有地で領主様がそん なことを気にするわけがない。タンブンの住民は国が定めた年貢のはるかに上を行く量を 納めるように強いられた。収穫の半分以上が取り上げられては、水飲み百姓にならざるを 得ないではないか。 そんな状況のブカシにひとりの男が現れた。チルボンのラマと名乗ったその男は、チタル ム川とチサダネ川の間の土地はそこに住む者たちの祖先の所有地だったのであり、地主の ものになっている現状は正されなければならない、と語った。 権利の回復と世直しを訴えるラマの言葉はチタヤム、デポッ、パルン、チバルサ一帯の住 民の間に浸透して、かれを指導者とあがめるひとつの勢力を形成させたのである。オラン ダが作った植民地体制とそれを利用してプリブミを虐げる外来異民族への反抗気運が高ま っていった。そのクライマックスが武力蜂起だ。 自らをパ~ゲランアリバサと呼ぶようになったラマは、叛乱の決起日を1869年4月3 日と定めた。かれの計算によればその夜は月食が起こるはずであり、オランダ兵は完全な 闇に包まれて鼻をつままれてもわからない状態になるから叛乱は必ず成功する、と確信を もってかれは説いた。この武力蜂起の目標はまずタンブン、続いてデポッからバイテンゾ ルフを席捲したあと、最終的にバタヴィアを奪取するという構想になっていた。 しかし植民地行政当局もきな臭いにおいを早々に嗅ぎつけており、バタヴィアとその周辺 地域の防衛態勢が強化されたことはだれの目にも明白に映った。だがパ~ゲランアリバサ は蜂起計画の延期を望まなかった。かれがしたのは行動計画の範囲を狭めたことだけであ り、蜂起をタンブンに集中させることにして、あくまでも決行の実現に向けて準備を進め ていった。 4月5日、パ~ゲランアリバサの戦闘部隊3百人が集結場所のチムニンを出てタンブンに 向かった。タンブンでは、メステルコルネリスの副レシデン、ERJCデクイパーが護衛 部隊とともに叛乱者を待ち受けていた。叛乱首謀者と話し合いをしようというわけだ。そ の時期、ブカシ郡はメステルコルネリスの行政区画に含まれていたため、デクイパー副レ シデンにとってこれは所轄内で起こった問題だった。 ところが話し合いなど実現せず、副レシデンとオランダ人医師および警護の7人が殺され てしまったから、政庁は大規模な叛乱潰滅の動きを開始した。[ 続く ]