「さよなら死刑囚(3)」(2022年09月09日)

蜂起部隊に加わった302人がひとり残らず警察に逮捕され、首謀者のパ~ゲランアリバ
サも1869年7月17日に捕まって、警察の大捜査は幕を閉じた。その303人のうち
の243人は警察の取り調べで重要な者でないと判断されたために釈放された。誘われて
賑わいを増やすために加わった者でしかないというのがその判断だったようだ。

叛乱の企画と進行に参加した者が裁判にかけられた。1869年9月29日に出された判
決は2人が死刑、19人が15年間の強制労働だったという話だそうだが、そうなると政
庁が称したタンブンの8殺人鬼との整合性がなくなる。ひょっとしたら、別の日に別の者
に対する別の判決が出され、死刑判決を受けた者が全部で8人あったということかもしれ
ない。その可能性を述べているイ_ア語論説もある。

首謀者のパ~ゲランアリバサは8人の殺人鬼の中にいなかったし、9月29日の裁判も受
けていない。9月27日にかれは獄死したのである。


オランダ植民地時代の裁判制度は、二系統で構築された。バタヴィアに設けられたRaad 
van Justitieは司法の中枢機関であり、ヨーロッパ人の裁判はヨーロッパの法律に従って
そこで行われた。ラアツファンユスティシは直訳すると司法評議会になるが、全国の裁判
所を統括する位置付けに鑑みて、インドネシア語では高等裁判所と訳されている。

一方、オランダ植民地政庁直轄領になった全国の行政区では裁判を受ける者がプリブミで
あるため、地元の慣習法によって裁かれるのが原則になっていた。この全国に置かれた裁
判所はLandraadという名称で、ラントラアツは直訳すると地方評議会になるのだが、イン
ドネシア語では地方裁判所と訳された。植民地の全行政区はオランダ人行政官が統括し、
さらにオランダ人判事と検事も駐在して所轄行政区の司法面を担当した。

地方裁判所で裁判が行われるとき、判事が裁判長になった。判事と検事は机を前にして椅
子に座る。法廷に置かれたその唯一の机は常に緑色の布で包まれた。そのために、インド
ネシア語でmeja hijauは法廷を意味する熟語として今でも使われている。

プリブミ地元行政官であるウェダナと獄吏も同席した。さらに地元の長老や宗教有力者も
列席する。裁判長は必要に応じて、緑机の脇に椅子を並べて座っている列席者にも助言を
求めた。被告も証人も床に座らせられた。かれらには椅子が与えられなかったのだ。椅子
が持つステータスの重みがあからさまに示されている図式だ。

弁護人が被告に付く習慣はその当時存在しなかった。裁判所というのは犯罪者に与える罰
を決める場所だったのである。判決を下すとき、慣習法による判決がヨーロッパの原理に
合致していればそのまま通ったが、ヨーロッパ的観念では重罪であるにもかかわらず慣習
法では軽微な犯罪でしかないような場合、判事はヨーロッパ原理を採用するのが常だった。
要するに、プリブミはかれらの慣習法で裁かれると言いながら、本質はヨーロッパの法原
理が使われていたということになる。

判決はたいてい、死刑か長期の強制労働だった。強制労働の場合は鉄球の付いた鎖を足に
はめ、鉱山に送り込まれて十年以上働かされた。死刑の場合はほとんど絞首刑が適用され
たようだ。行政区駐在のオランダ人判事や検事がなかなか来られない奥地や遠隔地の場合、
レヘントなどの地方行政首長が裁判を行うこともあった。


バタヴィアでは、裁判で判決が下された種々の処刑を市庁舎前広場で公開実施するのが習
慣だった。現在のジャカルタ歴史博物館前広場だ。中でも、死刑がどうやらもっとも人気
を集めたようだ。だが刑罰が何であったにせよ、世の中にそれを見せることは一般市民へ
の見せしめの意味を持っていただろうし、また処刑される者に恥辱を感じさせる意味合い
があったかもしれない。[ 続く ]