「さよなら死刑囚(4)」(2022年09月12日)

処刑執行の前日になると、メガフォンを持った広報員が近隣のカンプンを巡って「処刑が
行われるので見に来るように」と住民たちに触れて回ったそうだ。ともかく、犯罪者の公
開処刑はできるだけ多くの庶民に見せることが重要な方針になっていた。特に死刑を見せ
ることが凶悪犯罪抑止につながると考えられていたのだから、当時の人間の感性もそのよ
うなものだったのだろう。

植民地であったがゆえに、その方針はプリブミに向けられた。死刑が行われる場合、その
地のマンドル・ドゥマン・ウェダナ・パティあるいは社会的著名人たちに立ち合いの招集
がかけられ、かれらができるだけたくさん領民を見物に来させるように期待された。


バタヴィア市庁舎前広場での公開処刑はVOC時代から始まった。その初期の時代に首を
はねられたひとりがバタヴィア要塞守備隊の一兵士、オランダ人のピーテル・コルテンフ
フ15歳だ。

ピーテルが断頭刑に処せられたのは、時の総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが見せし
めにそれを使ったからだ。クーンは自分が作ったバタヴィアの町を秩序正しい清らかな町
にしようと望んでいた。故国オランダにあるような秩序と規律の備わった清教徒的な町を
ジャワのジャングルの中に作るという理想を掲げたのである。

オランダや他のヨーロッパ諸国から移住してきた住民男女がキリスト教に従って正式に婚
姻し、明るい家庭を築き、日曜日には全員が教会に集まって神を賛美するような町にしよ
うとかれは願った。婚姻していない男女の性行為はキリスト教でも罪とされていたから、
VOC時代のバタヴィアでは再三、キリスト教倫理に外れた性行為が裁判所で裁かれて、
犯罪者に刑罰が与えられたのである。

ピーテルが行った犯罪は、バタヴィア要塞内に住んでいた12歳の少女サラ・スぺクスと
の性行為だった。それがクーン総督の住んでいる要塞の中で行われたのである。自分の膝
元で、自分の腹心の部下から預かっていた娘と不倫行為を行ったピーテルを、クーンは八
つ裂きにしても飽き足らないと思ったことだろう。


サラの父親のジャック・スぺクスは1609年から1621年まで初代と第三代のVOC
平戸商館長を務めた人物で、VOCの初期の時代に会社内で最高の日本通として遇されて
いた。娘のサラはかれが平戸時代に囲った日本女性に産ませた子供だ。

ジャック・スぺクスがクーン総督の優秀な直属部下のひとりだったことは疑いもないとは
いえ、正妻でない女に産ませたアジア人との混血娘であるサラにクーンがどのような感情
を抱いたかは、何となく想像できるような気がする。

サラにとって不運だったのは、父親が本国の会社重役会から召喚されたために長期間バタ
ヴィアを留守にしなければならなくなったことだ。バタヴィアに戻ってくるまでの間、父
親は娘の身柄の保護を上司であるクーン総督に依頼した。クーンはサラを自分の居所であ
る要塞内に住まわせ、妻の小間使いとしての仕事をさせた。そして要塞守備隊兵士との出
会いが起こり、ふたりの関係が行くところまで行ってしまったのである。父親と一緒に暮
らしていれば、そんなことは起こりえなかったのではないだろうか。

1629年6月19日、バタヴィア市庁舎前広場でまだ若く幼い男女の処刑が集まった見
物の群衆を前にして行われた。ピーテルの頭が斬りおとされて、広場の石畳の上を転がっ
た。さすがにサラに死刑が与えられることはなかったが、広場で着ていた衣服をはぎとら
れ、その背に鞭が振るわれた。サラ・スぺクスの物語の詳細は「バタヴィア港」をご参照
ください。
http://indojoho.ciao.jp/koreg/hlabuvia.html
[ 続く ]