「イ_ア料理ディアスポラの悲劇(1)」(2022年09月12日)

ライター: ジャーナリスト、アンドレアス・マルヨト
ソース: 2013年9月27日付けコンパス紙 "Tragedi Diaspora Makanan Indonesia" 

インドネシア人は世界のあちこちにいる。かれらはインドネシア人ディアスポラという名
前でひとくくりにされてしまった。人間ばかりか、ヌサンタラの古文書も世界各地の博物
館や図書館に散らばっている。どんな古文書が世界のどこに置かれているかという情報を
集めた書物がKhazanah Duniaというタイトルで出版されている。インドネシアの食べ物デ
ィアスポラはどうなっているだろうか。


South Africa Highlightsと題する南アフリカに関する小冊子を読んだわたしは、その中
に書かれている「ケープタウンの町はインドネシア人が開いた」という記述に驚かされた。
そのインドネシア人とは、オランダ人が手に入れたその地で居留地の建設工事を行わせる
ために1652年以来南アフリカに送り込まれたジャワ人奴隷たちだったのである。今や
南アフリカ有数の港湾都市であり観光都市にもなったケープタウンにジャワ人奴隷たちが
果たした功績はたいへん大きい。

ところが他の書物を読んでいくうちに、わたしは当惑と悲しみに襲われた。書かれてあっ
たのはマレーシア料理という言葉だったのだから。19世紀までヌサンタラから南アフリ
カに移り住んだひとびとがもたらした料理がマレーシア料理と呼ばれているのだ。イスラ
ム布教のためにムラユ人が南アフリカに移住した例も確かにあったことだろう。だが、南
アフリカでそう呼ばれている料理の本質はインドネシア料理なのである。

この誤解の裏にあるのは、Malayという言葉の理解なのだ。ムラユという語が英語化され
てマレーとなった。ムラユの実体と歴史的コンテキストを正確に把握していないひとびと
はマレーという語を簡単にマレーシアという国に結びつけてしまう。英語でマレーと呼ば
れているムラユの実体は、マレーシアという国家をはるかに超えて広がっているものであ
るというのに。

そのこととは別に、このような現象については、われわれ自身も迂闊であったことを示す
ものと捉えるべきだろう。いくつかの国の中に入り込んだヌサンタラ料理の足跡を記録し、
また語り伝えることをわれわれはどれほど励行しているだろうか。われわれ自身が知らず、
外国人が誤解しても捨て置かれているのであれば、その現象はわれわれの怠慢が生んだも
のと言えるにちがいあるまい。われわれはその点を重々心にとめなければならない。


ヌサンタラ料理ディアスポラはインドネシア人あるいはインドネシア文化に親しんだ外国
人の移住と深く関係している。その初期のパターンは、南アフリカにインドネシア人がや
ってきたケースのように、労働力のための奴隷として強制移住させられたものが多かった
ようだ。

ケープタウンの町中で料理用語の中にジャワ文化に由来する言葉が見つかる事実をその有
力な証明と見なすことができるだろう。ひとつの容器に数種類の料理を置いて供する方式
をケープタウンのひとびとはbarakatと呼んでいる。ジャワでは、祝祭を祝う家庭がひと
つの容器にさまざまな料理を置いて隣人や知人たちに配ることをberkatと称している。
[ 続く ]