「イ_ア料理ディアスポラの悲劇(2)」(2022年09月13日)

bobotieと呼ばれる食べ物もケープタウンでよく知られている。Cape Malay Cookingとい
う書物にボボティはインドネシアのbobotokと同じものだと書かれている。ほかにも、イ
ンドネシアプラナカンの間でよく使われている言葉がある。たとえばレストランの休業日
の表示に書かれるJumuwah。これが金曜日を意味するJumatに由来していることは容易に想
像できるだろう。そのレストラン経営者は金曜日の集団礼拝のために店を閉めるのだ。ケ
ープタウンの町にいくつかある、ヌサンタラ料理を供するレストランのひとつが、Hotel 
The Portswood内にあるレストランThe Quarterdeckだ。

クオーターデックはマレーシア料理レストランと呼ばれており、レストラン自身も表向き
はそのような言い方をしている。ところが、かれらが用意しているブロシュアには、それ
らの料理がインドネシアに由来していることが説明されている。インドネシア料理が海外
により広く所を得るためには、このようなケースを正すための努力がインドネシア側に求
められているのだ。インドネシア料理が違う国の知名度を高めているようでは、インドネ
シアに何のメリットももたらされないだろう。


ヌサンタラから別の植民地に人間を移住させてその地の開発を行わせた例はケープタウン
のほかにも、スリナムやニューカレドニアがある。ひとびとは慣れ親しんだ料理を移住先
の地に植え付けた。オランダにあるスリナムレストランのメニューの中にヌサンタラ料理
のいくつかを見出すことができる。サンバルがその代表格だ。

政治的な激動もヌサンタラ料理が他国に広がることを促した。インドネシアが独立したと
き、オランダ人や他の外国人の中にヌサンタラを去る者があった。その中にヌサンタラ料
理を作れる者がいた。たとえば、インドネシア系オランダ人ピート・アルフォンソだ。か
れはフィリピンのマニラに移住してカフェインドネシアを開いた。それがフィリピンに初
めてオープンしたカフェだったとされている。

そこではサテ・ナシゴレン・ガドガドからサユルロデに至るさまざまなヌサンタラ料理が
メニューに収められていた。このカフェは時の流れの中に姿を消したが、そのメニューの
中にあった料理のいくつかはマニラのひとびとの間に今でも名を残している。

1965年の政治的激動が外国にいたインドネシア人の帰国の道を閉ざした。戻れなくな
ったひとびとは自分の力で生きて行かざるをえない。そんな中にヌサンタラ料理レストラ
ンを開くひともあった。そのひとつがパリのレストランインドネシアだ。その店のオーナ
ーのひとり、故サブロン・アイディッは、レストランインドネシアの生い立ちや諸エピソ
ードの記されたMelawan dengan Restoranというタイトルの書物を世に送った。


仕事や留学のためにインドネシア人がやってきた国の中にもインドネシア料理が定着した
ところがある。オーストラリア・米国・ドイツ・オランダ・中国などだ。外交官の家族や
大学生など海外に長く暮らしているひとが多い。

このケースにおいてはしばしば、華人系インドネシア人のアントレプレナーシップが顕著
に感じられる。ヌサンタラの食べ物ディアスポラにかれらの果たした功績は小さくないも
のがある。

ビジネスチャンスを見逃さない才能と妥当な料理技能が相まって、かれらは多くの国でレ
ストランを開いた。それらの国に新しい食べ物を紹介することにかけて、かれらはたいそ
う積極的だった。その一例として、ドイツに留学したメダン出身の華人系大学生の話があ
る。インドネシア人留学生の会合の際に、かれはしばしば飲食物世話係を命じられた。そ
の経験がかれに料理の腕を磨かせることになった。こうしてかれはインドネシア料理のレ
ストランを開業するに至ったのである。[ 続く ]