「イ_ア料理ディアスポラの悲劇(終)」(2022年09月14日)

ヌサンタラの料理がさまざまな国で知られるようになった現在、そこにひとつの傾向を見
出すことができるのはたいへん興味深い。ヌサンタラの料理がさまざまな国の料理に添え
られて供されたり、あるいはまた外国の料理の中に組み合わされて出てきたりしているの
である。

南アフリカのレストランの中には、ヌサンタラ料理がインド料理や西洋料理、果ては地元
料理の中に混じっているメニューを出しているところもある。どうしてそのようなことが
起こっているのかを尋ねても、わけを答えてくれるひとは見つからない。

スリナムのレストランでは、ヌサンタラ料理がインドや中華料理と混じりあって混然一体
となっている。それはスリナムの植民地化の流れの中で、ヌサンタラの人間、インドや中
国の人間が現地に送り込まれ、かれらが共同生活を送ったことが原因になっている。

オーストラリアのレストランの中に、ヌサンタラ料理とミャンマー料理が同居している店
があった。それは、その店の料理人の中にミャンマー人がひとりいたためで、ミャンマー
料理がそこのメニューの中に混じる結果を生んだ。ドイツのとあるヌサンタラ料理レスト
ランではベトナム料理がメニューの中に混じっていた。それはヌサンタラ出身の店主の妻
がベトナム人だったからだ。


世界諸国にあるインドネシア料理店を覗いてみれば、世界中に名の知られたインドネシア
料理が何であるのかはたいてい想像が付くだろう。ナシゴレン・サテ・ルンダンなどはヌ
サンタラ出身者がその店にひとりもいなくても、往々にしてメニューの中に収められてい
る。それらの料理は既に国際化を体験していると言うことができるにちがいあるまい。

ところが残念なことに、インドネシア料理ディアスポラの足跡が詳細に記されたことは一
度もなかった。必然的に、それがどんなルートをたどって国際化という結果に至ったのか、
国際的にどのような広がりになっているのか、などについての信頼できる情報が欠けてい
るのだ。もっと残念なことに、ヌサンタラ料理の国際舞台への進出が確かに起こってはい
ても、全体として見るなら中華・西洋・タイ・ベトナムなど著名な料理カテゴリーの後塵
を拝しているのが実情なのである。ヌサンタラ料理の深く根付いた国や地方があるにもか
かわらず、料理カテゴリーとしての存在感が国際舞台で眺めるかぎりまだまだ濃くなって
いない現状は、ヌサンタラ料理ディアスポラの悲劇と呼んで差し支えないだろう。

インドネシア料理外交もアグレッシブさに欠けている面が感じられる。南アフリカでヌサ
ンタラ料理がマレーシアと言われている一例も、誤った社会常識を覆す努力によって正す
ことができるはずだ。南アフリカの社会にヌサンタラ料理をインドネシアの名においても
っと強力に紹介していけば、インドネシアとマレーシアの違いが理解されるようになるだ
ろう。ヌサンタラ料理の豊富さと多様さは、われらの親愛なる隣国をはるかにしのいでい
るはずだからだ。

インドネシアの文化外交の中で既に展開されているバティック外交に、どうして料理を付
随させてやらないのだろうか?バティックを主役に立てて紹介する傍ら、その後ろにヌサ
ンタラ料理を並べて置くのである。バティックは今や世界中に知られている。スワジとい
う小国にさえ、バティックギャラリーがあるのだ。世界に羽ばたくバティックの後ろにイ
ンドネシア料理が付いて回るなら、インドネシア料理ディアスポラもますます世界を駆け
巡って味覚の花を咲かせるに違いあるまい。[ 完 ]