「さよなら死刑囚(6)」(2022年09月14日)

180年ほど続いたVOC時代のバタヴィアでは、ほとんど毎週市庁舎前広場で処刑が行
われていた。市民の間では処刑見物が娯楽のひとつになり、その人出を狙った物売りが集
まってパサルの趣を呈するようになったことから、処刑見物に来ているのかパサルへ遊び
に来ているのか自分でも良く分からないひとびとが増加したそうだ。


その後、VOCが倒産して国が東インドを植民地にしたあとも、バタヴィアでは市庁舎前
広場で公開処刑が行われ続けた。しかし人間の感性が変化してきたのだろうか、行政の中
枢部で人間の死を市民大衆に見せることをやめる日がついにやってきたのだ。公開処刑の
場がバタヴィア市庁舎前広場からグロドッ刑務所前広場に移されたのである。

1896年に行われた絞首刑がバタヴィア市庁舎前広場での最期のものになった。その最
期の舞台を踏んだのはまだ若いハンサムな華人プラナカンのチュー・ブンチェンだった。
この男はふたりの女性を残虐な方法で強盗殺人したために死刑の判決を受けた。

そのころはバタヴィア市内を既に蒸気トラムが走っていたから、メステルコルネリスのよ
うな遠い地域からも処刑見物の市民が大勢トラムに乗って市庁舎前広場に集まってきた。
広場はたくさんの見物人で埋め尽くされ、さまざまな物売りがやってきてたいそうな賑わ
いになったそうだ。千人を超える群衆が集まり、中でもブンチェンの処刑を見物に来たの
は女性の方が多かったと報道メディアは伝えている。

法曹関係の高官たち、副レシデン、検事、監視官、その他の高官たちが市庁舎前に整列し
た。午前7時、執行開始を告げる鼓隊のドラムロールが鳴り響く。警護兵にガードされた
死刑囚が絞首台の階段に近寄ると、広場にいた群衆も絞首台に近寄ろうとして一斉に前へ
動いた。

高級な葉巻を吸いながら死刑囚は台上にのぼった。その葉巻が法曹側から死に往く者へ贈
られた惜別の情のしるしであるのは、周知のことになっていた。処刑前夜に死刑囚はうま
いものをたらふく食べさせてもらうのが慣習になっていたそうだ。


galgenveld(英語でgallows field)という異名でも呼ばれていたバタヴィア市庁舎前広
場が公開処刑場所にされていたのは、公儀が行う行事ということもあっただろうが、囚人
が入っている監獄のすぐ前という地理的な便宜もあったにちがいあるまい。おまけに市庁
舎内に高等裁判所まであったのだから、犯罪者の処理は最高の効率で進められたことだろ
う。だが、市庁舎前広場が唯一のハルヘンフェルツだったかどうかは、また別問題だ。

1747年製のバタヴィア地図には、バタヴィア城市の東側を包むバンダ人カンプンのも
っと東側の空き地の中に、絞首台の絵とGalgenfeldの文字がはっきりと描かれている。一
方、城市内の現在の市庁舎と広場がある位置に、現在の地図に見られるような街区の形を
見出すことができない。1747年製だから1747年の地勢を描いているという錯覚は
われわれが陥りやすい盲点かもしれない。


それはそれとして、社会統治の一手法としての法治手順の中でバタヴィアが持っていたそ
の、不穏な人間を社会から隔離するために捕まえてきて牢獄にぶち込み、裁判を行い、表
の広場で処刑するというメカニズムにおける効率の良さは、罪があろうがなかろうが、し
ょっ引いてくればこっちのものという風潮を生むのに一役買ったのではないだろうか?

監獄の看守や下働きの連中は、少しでも良い扱いをしてもらいたい囚人たちからあからさ
まに金を取った。監獄で働けば暮らしに困らないというのは公然の秘密になっていたよう
だ。だから公安秩序を乱すことを理由にしてたくさんの罪のない人間が官憲に引っ張られ、
監獄に入れられて看守たちに金をみつぐ役割を強いられたことは想像に余りある。
[ 続く ]