「さよなら死刑囚(7)」(2022年09月15日)

もっと後の時代になると、民事事件で刑務所に入れられる者も増加した。囚人は食べ物を
自分で用意しなければならなかったから、囚人の家族が毎日それを届けに来たということ
になる。しかし外部者が勝手に監獄の中まで入って囚人と好きなように接触できるはずが
ない。看守や監視人の許しと好意をもらって確実に食べ物を相手に渡さなければ、その囚
人はひもじい思いをすることになるのである。

だから誰もが好意を金で買った。おかげで昔から世界中で、監獄で働けば容易に金が稼げ
るということが常識になっていたのではないだろうか。


バタヴィア市庁舎は最初、1620年にクーンが別の場所に建てさせた。それが1626
年にマタラム軍のバタヴィア進攻で破壊されたために、1627年に現在の場所に移して
再建された。しかし軟弱な地盤のために1648年ごろから建物がおかしくなりはじめ、
1707年にヨアン・ファン・ホールン第17代総督が建て直しを命じ、次の総督アブラ
ハム・ファン・リーベークのとき、1710年7月10日にオープニング式典が催された。
市庁舎の全部が完全に工事を終えたのは、その2年後だった。

このバタヴィア市庁舎に監獄の機能が備えられていた。建物の地下には小さい地下牢があ
り、また市庁舎前広場の下には水牢が設けられ、換気の悪い不健康な牢獄で囚人は短期間
に健康を害し、容易に死んでいったという話だ。

1845年に書かれた記録によると、入獄させられた人間はその85%が4ヵ月以内に死
んだそうだ。しかし監獄には拷問室が付き物であり、その85%のすべてが健康問題で死
んだのかどうかは定かでない。

わたしもバタヴィア市庁舎の地下牢に入ったことがある。いや、犯罪者としてでなく、一
観光客として入ったのだ。高さ1.5メートルほどの低く狭く鉄格子のはまった房の中に
は鎖の付いた鉄球がいくつも床に置かれていた。きっとその鉄球は何人もの囚人の足に付
けられてからお役御免になったのだろう。そこにある、鉄格子で仕切られたいくつかの房
は、囚人たちで常時満ち溢れていたのではあるまいか。


パゲランディポヌゴロの叛乱戦争が終結し、ディポヌゴロ王子が1830年4月から5月
にかけての一ヵ月間、バタヴィア市庁舎内に監禁されていたのは、市庁舎が持っていた監
獄機能が使われた一例に違いあるまい。つまり植民地政庁上層部がかれを客人として扱っ
たということでは決してないように思われる。

もちろん地下の水牢に浸けることはせず、建物二階の一室でホテル並みの暮らしを享受さ
せたのも確かだが、それはやはりマタラム王国のかれの親族の感情に配慮してなされたも
のにすぎず、王子自身は叛乱を起こした犯罪者として遇されていたと解釈するべきように
思われるのである。王子はバタヴィア市庁舎から北スラウェシのマナドに流刑されてその
生涯を終えた。

同じことは、もっと後の時代のアチェ戦争で捕らえられた女傑チュッ・ニャ・ディンにも
行われた。かの女はアチェから西ジャワのスムダンに流刑される前に、バタヴィアの市庁
舎でしばらく暮らしている。


バタヴィア市庁舎から近い場所にグロドッ監獄があった。現在その場所には商業中心プラ
ザグロドッが建っている。土地の売却は1970年代に行われた。

グロドッ監獄は1743年に作られた。プチナンの真っただ中に建てられたこの監獄は最
初、華人用としてオープンしたものだ。建てられた時期を見る限り、Geger Pecinan(華
人街大騒乱)がこの監獄を生んだことはすぐに想像が付くだろう。[ 続く ]