「リビドエルゴスム」(2022年09月15日)

ライター: 文化人、ヤコブ・スマルジョ
ソース: 2011年11月26日付けコンパス紙 "Nafsu Berkuasa" 

われ思う、ゆえにわれあり。
17世紀にデカルトは「人間は思考である」と述べた。18世紀にロマン派詩人たちは、
「人間は心である」と言ってそれに反論した。21世紀初めのインドネシアでリビドエル
ゴスムの叫びがそれらを否定した。「われ欲望する、ゆえにわれあり」(ピーター・マイ
ンクの詩の一節)

インドネシアで、レフォルマシと共にそれが起こったのだ。リビドーが思考も心も押しの
けてしまった。路上に、役所に、テレビスクリーンに、それどころか礼拝場所に、教育現
場に、リビドーが溢れかえっている。金持ち・有名人・権力者を目指す欲望のうごめきが
至るところを埋めている。

世界的画家メリー・ドノは、いつでもペニスを怒張させる態勢で向き合う獰猛な者たちの
姿に満ちているインドネシアのありさまを的確にキャンバスに描いた。ジャワのワヤンク
リの中でその種の者たちは享楽的ラッササのシンボルとして登場する。巨大な身体、鋭い
歯の並ぶ開いた口、満足したことのない欲望を漂わせるカッと見開いた大きな目。


インドネシアの振る舞いを見て意味ありげな微笑を浮かべている小さい隣国たちの様子は、
わが国に何が起こったことを物語っているのだろうか?自己の内部に矛盾を詰め込んだこ
のパラドクス民族、沈没船が周囲を埋め尽くしている島嶼国家、世界最長の海岸線を持ち
ながら塩を輸入している国。

爆弾テロが頻発する宗教的民族、自分の所属階層のためにその名前を利用する一部の者た
ちに便宜を提供するだけの国民、森林破壊を放置している地球の肺の代表国。このパラド
クスの詩は謡い上げていけばきりがない。

そのすべてがわれわれ自身のパラドクス精神に由来している。自分の民族についてよく分
かっていないままひとつの民族を樹立しようとしているのではないか。他民族のコピーは
最終結果であり、最初からすることではない。他民族の成功を簡単にうらやむのは自分の
文化を尊重しないからだ。目を持ちながら物を見ず、耳を持ちながら何も聞かない。

思考回路はあっても何も流れず、他民族の文化を暗記しようとするだけ。心は持っていて
も、情緒は鈍感。欲望は山のようにそびえ立つが、考えは不釣り合いの少量で、力すらそ
の実現にほど遠い。


消費主義、享楽主義、物質的世俗的なリビドーが民族生活を支配している。テレビは毎日、
現代生活における楽しい暮らしの仕方を教えてくれるものの、その資金をどうやって手に
入れるのかについては一言も触れない。モール建設が都市辺縁部に殺到し、中国・日本・
シンガポールの成功に追随できたような楽しい気分にしてくれる。

愚かで時代遅れだとわれわれが思っている祖先の金言は、結果よりもプロセスの方が大切
であることを呼び掛けているのだ。プロセスさえ間違っていなければ、その結果がわれわ
れを満足させるかどうかは二の次の問題になる。この世における生とは「お勤め」なので
ある。あなたの義務は、なさねばならないことをするだけだ。ところが現代のわれわれは、
自分が植えもしなかった収穫を享受している。欲望は、働くことなどに無関心で、収穫を
もぎ取ることばかりに向けられる。

宗教的な民族としてわれわれは昔から、エゴイズムに支配された欲望を抑えるように教え
られてきた。アーノルド・トインビーに従えば、あらゆる宗教の目標は同一である。人間
のエゴイズムを抑えることだ。いや、抑えるどころでなく、宗教のいくつかはエゴの欲望
を極小化したり、あるいは断絶させることを勧めている。われ欲望する、だからわれが存
在するのだ。リビドエルゴスムなのである。

< 空の叡智 >
それがゆえに、昔は空の哲学が語られた。支配者のように振る舞うことなく支配する。勝
者のように振る舞わないで勝利する。豊かであっても富者のように振る舞わない。利口で
あっても、おくびにも出さない。現代人のようなことをしてはならないのだ。

豊かでないのに金持ちを装い、権力などないというのに権力者を名乗り、利口でないくせ
に利口者のふりをする。それは本来のインドネシアではない。

正しい稼ぎ方をして財を蓄えるプロセスを経た結果富者になったとしても、あなたの財布
には穴が開いていなければならないのだ。あなたの手中に入ったものは、それを必要とし
ているひとびとの手に還流されなければならない。財布に金がひとたび入ったら、一銭も
転がり出ないように財布にしっかり錠をおろすような信条を奉じてはならない。

豊かさとは蓄えた所有物の量のことでなく、その使い方を意味している。真の富者とは、
自分の所有物でたくさんの善行を行う人間のことなのだ。真の権力者とは、自分が手中に
した権力を使って多くの善行を行う人間のことであり、真の利口者とは、頭の良さを他人
のためになることに使う人間を指している。


富・権力・知能は善の欲望にも悪の欲望にも奉仕することのできるパワーだ。それらはひ
とに芳香薫る名前を持たせることもできれば、腐敗臭に包まれた名前の烙印を捺すことも
できる。墓石の下にそれらを携えて行ける人間などひとりもいない。それらはこの世に縛
り付けられたものなのであり、矮小化する一途のこの世でしか通用しないのだ。

もちろん、そんな理屈は自らを宗教的であると見なしているひとびとにしか通じない。世
俗的無宗教的なひとびとにとっては、富も権力も知能も負担をもたらすものなのではない
のか。破産して貧困生活に陥るのが怖い、今の地位から外されたら悲しい、自分の利口さ
に対抗してくる人間は憎らしい。

この民族は現在追い求めているリビドーについて、もっと深く問い詰めるべきだ。哲人デ
カルト、ロマン派詩人たち、そしてインドネシア人先賢たちが語った、知識と感性は大切
なものだという真理を思い出さなければならない。思考はリビドーと行為の間の架け橋な
のだ。そして行為の結果こそが、適正さあるいは真や善であるかどうかについての感性上
の価値体験なのである。制御されないリビドーはこの民族を崩壊させるだろう。