「さよなら死刑囚(8)」(2022年09月16日)

その次に近かったのは、現在のグヌンサハリ通りとブディウトモ通りの交わる角地にあっ
たヴェルテフレーデン刑務所だろうか。これはVOC倒産後、フランスに服属したオラン
ダのジャワ島保有確保のために派遣されたダンデルス総督がバタヴィア城市内からもっと
南の健康的な地域に首都を移動させたときに作られたものだ。

ダンデルス総督は、腐敗の香り芬々たるバタヴィアの行政府で大ナタを振るった。汚職と
腐敗行為の巣窟になっていたバタヴィアの中枢行政機構を近代的組織にするために、かれ
は場所と人間ともども大掃除を行った。どうやら死刑はその中で掃除道具のひとつとして
活用されたらしい。そのために死刑に関する法制度化も行われた。かれはオランダ領東イ
ンド植民地における死刑判決を総督権限の中に納めてしまったのだ。そのために総督の同
意なくして裁判所が死刑判決を下すことはできなくなった。

さらにかれの大ナタは死刑判決を増やし、死刑執行も当然の帰結として増えた。それまで
ヌサンタラであまり知られていなかったヨーロッパの処刑方法もこの南国で試みられたし、
ヨーロッパ人になじみのないプリブミ方式処刑方法も使われたことがある。

死刑囚を柱に縛り付けて火刑に処すという、VOCもプリブミもしなかったことがダンデ
ルスの時代に行われた。プリブミ王国で常用されていたもののオランダ人社会にはなじみ
のなかった、心臓をクリスで一突きという処刑もダンデルスが実行させている。

植民地政庁が行った死刑の法制度整備はその後1873年1月1日付けの原住民刑法典、
1918年1月1日付けで出されたインドネシア刑法典という形で継続した。オランダ本
国では1870年に死刑制度が撤廃されて刑殺という行為が法律の中から消滅してしまい、
終身刑が最高刑罰になったにもかかわらず、植民地では死刑制度が温存され、実施され続
けたのである。この一事からも判るように、ヒューマニズムとは同じヒューマンであるこ
とが前提になって適用されるものであるということ、死刑の存置が野蛮さの証明なのでな
く、野蛮さが死刑を必要としているのだというようなロジックが見えてくるだろう。


自分の所属している共同体の構成員を公の名において殺すことを人間が始めたのはいつの
ことだったろうか?それは、直立歩行するサルが集団居住を開始するようになって以来の
ことかもしれない。四つ足歩行のサルは家を持たなかっただろうから、公という概念が土
地を背景にして存立していることを考えるなら、かれらに公の観念はまだ出来上がってい
なかったように思えるのだが、かといって家を持たないサル集団にも統率の現象が見られ
ることは、公観念の萌芽が存在していた可能性をも感じさせてくれるのである。ただまあ、
意識の中に公私という概念が対立的に存在しているのが人間化したサルだったのであり、
そこの区別意識が明白でなかったなら、公の名における刑殺という観念に達することはな
かったかもしれない。

いやいや、共同体の統率と秩序規律を犯す構成員を排除するために殺すことは「公」など
というもったいぶった理由付けなしに行われていたかもしれないのだ。言葉に価値を持た
せて美しく理由付けを行う子孫たちの弱点を直立歩行を始めたサルたちが知ったなら、愚
にもつかない言葉などに行動の自由をゆだねてしまうに至った子孫たちを見て、かれらは
嘲笑しているかもしれないではないか。

ヌサンタラの各地でも、公の名における刑殺は疑いもなく昔から行われていた。たとえば
19世紀にカリマンタンを調査したオランダ人たちも、原始生活を営んでいるダヤッ人の
間で死刑が行われていることを報告している。[ 続く ]