「奇妙なイ_ア人の食嗜好(1)」(2022年09月19日)

インドネシア人の挨拶の中に「Sudah makan atau belum?」というものがある。この挨拶
がインドネシア人のコメ消費量をいやがうえにも高めているのだ、とジャーナリストのヘ
ル・スガンダ氏が書いている。

イ_ア人の潜在意識の中にmakanとは米飯を食べることという定義付けが刷り込まれてい
て、挨拶としてマカンのことを尋ねられるのだから食べておかなければ肩身が狭くなると
いう気持ちが働き、何が何でも白飯を食べようとするのかもしれない。

イ_ア人は確かに、パンや麺、極端な場合はナシゴレンでさえ、ついさっき食べたにもか
かわらず「Saya belum makan.」と言うひとがいる。マカンの語がいかに白飯と深く結び
つけられているかということが、そこに示されている。マカンという行為を果たすために
は、エビや卵焼きが乗った豪勢なナシゴレンでは役不足であり、皿に盛られた白飯と塩魚
一切れおよび数個のチャベだけでも良いから、そのような真打が登場してくれなければ話
にならないのだろう。


オルラレジーム下のインドネシアでは学校の教科書に、マドゥラ人はトウモロコシ、マル
クやパプアではサゴが主食だということが書かれていた。ところがオルバレジームは国民
の主食をコメに一本化してしまった。米は政治的に十分ストラテジックなものなのである。

国民の福祉レベルにコメを関連付けることができるため、コメで国民の生活状況を計るこ
とができるようになる。ところがコメ価格の制御に失敗すると、政権崩壊のしっぺ返しが
待ち受けている。

オルバレジームは国内のコメ生産促進を国内政策の柱のひとつにし、1984年にコメ生
産が全国民の総需要を満たす量に達したため、コメの国内自給に成功したともてはやされ
た。しかしその後がいけなかった。

数字上で国民の総需要とされたコメの量を満たすだけの生産が続かず、反対にコメを主食
としていなかった地方がコメを主食にするようになり、その地方にあった伝統的主食の生
産がおろそかにされた結果、全国的なコメの不作が起こるとそれらの地方は食糧危機に陥
った。

恐ろしいのは、非コメ文化だった地方にコメの生産と消費を行わせようとして、食物の価
値観についての洗脳が行われたことだ。トウモロコシやサゴを主食にしていた地方の住民
に、現代人はコメを食うのだ、コメを食えばジャワ人のように優秀になれる、といった文
化的差別を吹き込んだ。元々コメ栽培に不向きな気候と土壌だったためにコメ栽培があま
り盛んでなく、その帰結としてコメが主食になっていなかったという歴史が無視されたの
である。気候と土壌は何も変化していないのだから、無理なコメ栽培が行われて失敗のリ
スクにつきまとわれるようになった。おまけに時代遅れの昔の主食は顧みられなくなった
のだから、いつ起こるかもしれないコメの不作が実現すれば食糧が欠乏するのは当たり前
だ。


同じインドネシア人だと言いながら、地方によって種族によって、コメに対する心理的傾
斜度は相当にバラついている。たとえばミナンカバウ人。パダン料理・ミナン料理では、
レストランのテーブルいっぱいにおかずが並べられるが、飯はそこそこ盛られた皿がひと
りに一枚出されるだけ。ところがスンダ料理のレストランへひとりふたりで行って食べる
とき、テーブルの上にわずかなおかずが載るだけなのに、白飯は竹編みの飯櫃であるボボ
コにたっぷり入れられてテーブルの一画を占める。おのずとミナン人はおかずの比重が上
昇するが、スンダ人は白飯を一生懸命食べることになる。[ 続く ]