「さよなら死刑囚(10)」(2022年09月20日)

ヨーロッパ人がやってくるようになるまで、ヌサンタラのたいていの種族が持っていた規
準は慣習法とよばれるものであり、そのほとんどは非成文法だ。オランダ人がやってきて
ヌサンタラの支配に取り掛かり始めると、ヌサンタラは二元的な法制度に包まれるように
なった。慣習法とオランダ法の並立である。基本はプリブミに慣習法、ヨーロッパ人にオ
ランダ法が適用されることになってはいたが、それでは済まないことも頻繁に起こった。

VOCがヌサンタラの地に根付く前は、オランダ法が適用されるのはVOCの船舶内だけ
だった。それが徐々に地上に移ってきた。VOCが領土を持ち、そこで非プリブミが共同
体生活を営んだとき、VOCの社員たちのために働くプリブミがその共同体を統括する法
律の中に巻き込まれなかったわけがない。

VOCは自社が領有した土地に設けた社会の統率のために法規を作って施行した。それが
バタヴィア法規だ。その法規集に盛り込まれた内容、古いオランダ法、ローマ法典の諸原
理、そしてオランダ本国の法律などがオランダの支配下に置かれたヌサンタラを覆うこと
になった。

だからプリブミの慣習法がそれぞれの種族によって差異を持っている一方、オランダ法と
言っても一元的なものになっておらず、西洋原理を踏まえた法システムの寄せ集めだった
から、それほどシンプルな二本立てということでもなかったわけだ。


VOC初代総督ピーテル・ボーツが1610年にマルクに赴任して会社の基地を設けたと
き、VOC領土の法制度を定める権限を与えられた。定められた法規はplakaat(布告)
にして掲示された。しかしその布告集のファイル方法が拙劣だったために現行法規の内容
が分かりにくくなってしまい、1636年に第9代総督に就任したアントニオ・ファン・
ディ―メンがヨアン・マーツァイカーに命じて整理させた。

1642年に完成したその集大成がバタヴィア法規集である。その内容は、VOC領土内
にいるプリブミや外来者にも適用された。VOCは1766年に再度、会社布告の集大成
を行って、法規内容の有効無効の確定を図っている。


しかし、法規適用に際しては、プリブミの慣習法にも注意が払われた。場合によっては、
プリブミに対する法的措置に慣習法が優先されたこともある。とはいえ、慣習法による審
判がヨーロッパの原理にそぐわない時は慣習法が脇に押しやられることになった。

慣習法で扱われる証拠証人の判決に与える影響はヨーロッパ原理のそれと異なることが多
く、それがひとつの難点を形成していた。あるいはヨーロッパ原理においては犯罪である
というのに慣習法では犯罪にされていないものもあったし、それ以上の根本問題としてプ
リブミに慣習法の適用を優先させればプリブミはオランダ法を尊重しなくなるという懸念
もオランダ人の側にあったことだろう。

そんな法制度の状況から、ヨーロッパに根付いていた様式の死刑がヌサンタラに持ち込ま
れることになった。VOC時代に行われた死刑の中には、死刑囚の両手両足を四頭の馬に
縛り付け、四頭を一斉に相互に正反対の四方向に疾走させて身体をバラバラにする方法な
ども使われた。この処刑はどうやら、既に刑死した死者の尊厳を粉砕するために行われた
ものだったようだ。囚人は既に絞首刑や断頭刑で死んでおり、その遺体をバラバラにして
プリブミへの見せしめにしていたという記事がある。

VOC時代を終えてからは、このような見せしめのための見せしめはあまり行われなくな
り、植民地政庁の統治に変わったあとはもっぱら絞首刑か銃殺刑になった。それでも公開
処刑は20世紀になるまで続けられた。[ 続く ]