「さよなら死刑囚(11)」(2022年09月21日)

マタラム王国では、picisと呼ばれる残酷な死刑が行われた。この処刑方法では死刑囚を
柱や木に縛り付け、ナイフで皮膚を切り裂いてそこに塩や酢を塗りこむのである。全身の
いたるところが切り裂かれて痛みを最大にされ、死ぬまでそれが続けられる。そのピチス
処刑はイギリス統治期にラフルズ総督が廃止させた。

それが廃止されるまで、死刑の判決を受けた囚人は処刑方法を選択することが許されてい
た。ひとつはピチス、もうひとつはジャワ虎との対決だ。巨大な虎の入った檻が王宮の大
広間に置かれ、槍を持った兵士がびっしりと隙間なく整列して円形に闘技スペースを取り
囲む。囚人が闘技スペースに連れて来られると、檻が開かれて虎が外に出る。王と王宮の
高官たちは囚人が虎の爪と歯牙にかけられて死ぬところを見物するのである。

たとえ囚人が虎を打ち負かしたところで兵士の槍で串刺しにされるだけだし、もしも虎が
逃げようとすると虎も兵士がよってたかって刺し殺す。この制度がジャワ虎絶滅の原因に
なったのだという声は小さくない。


オランダ植民地政庁の統治下にあったおよそ150年間、死刑は絞首刑が圧倒的に多かっ
たようだ。しかもVOC時代と同じように、昼日中に公開された。

1942年からの日本軍政期には、銃殺刑が多く行われたそうだが、日本刀による断頭も
決して少なくなかったとインドネシア語記事は書いている。


1945年8月17日に独立宣言をしたインドネシア共和国は、植民地時代の刑法典をそ
のまま継続させた。1918年1月1日付けのインドネシア刑法典だ。独立維持のための
戦争をオランダと5年間続けた共和国に、国民生活を律する刑法典を改定する余裕はなか
ったに違いあるまい。おまけに国家存亡の緊急事態なのだから、死刑が活用できるのはひ
とつのメリットであったかもしれない。

最終的にオランダが手を引いて、共和国が国際的に承認される日がやってきたあと、スカ
ルノレジームは内乱のうねりに翻弄されるようになった。イスラム国家樹立を目指す一派
があちこちで動乱を起こした。それに対処するためにスカルノ大統領は死刑を使った。V
OC時代からの伝統となっていた、行政権力を委ねられた者の汚職に対しても、スカルノ
は死刑を最高刑にしている。スカルノにとって死刑の存置は不服従者に対する威嚇の意味
合いが強かったと言えるだろう。もちろん単なる威嚇的言葉で終わるわけがなく、死刑執
行はたびたび行われている。実例を示さなければ、威嚇の意味はあるまい。


スカルノからスハルトへのレジーム交代が私刑による大量処刑を伴ったのは皮肉なことだ
ったが、それを駆った原理的側面を見るなら、そこには公の色合いが濃く滲んでいたのも
確かだろうとわたしは思う。公の旗が振られたおかげで大量になったようにわたしには感
じられるのである。

スハルトも死刑を活用した。かれが目標にした経済開発を支えるための国内治安の安定化
を妨げる者は容赦なく死刑に処せられた。汚職は経済開発コンセプトの片隅に位置を与え
られてそこに安住した感があり、国内治安の安定を妨げないかぎり放って置かれた印象が
強い。最も重い犯罪は国家転覆だった。内容が何であれ、それは国家転覆に該当すると言
われたなら、罪を問われた者は死刑がかれの生涯を?み込んだ。

さまざまな主題に関する法律が作られ、多くの場合死刑が違反者への最高罰にされた。世
界的な情勢に鑑みて死刑廃止を訴える声がインドネシア国民の間に出なかったわけでは決
してない。政府側から出されたコメントはそれぞれの主題に関連する多彩なものになった
が、その中に死刑廃止はストリートジャスティスの活発化を促すので、廃止すると社会的
秩序の乱れを引き起こす恐れが高いというものがあった。要するに悪人を公権力が刑殺す
るから、民衆が手を下す必要はないということを物語っているように聞こえる話だ。それ
が当時のインドネシアだったのである。[ 続く ]