「奇妙なイ_ア人の食嗜好(4)」(2022年09月22日)

インドネシア人の食に話を戻そう。
インドネシア人は食事のとき、多種類の味覚が口の中で混じりあうのを昔から好んだとウ
イリアム・ウォンソ氏は述べている。現代インドネシア人はそれをナノナノ現象と呼ぶ。
味覚ばかりか心理的な感覚に至るまで、種々雑多な味わいを同時に感じさせてくれるもの
がナノナノと呼ばれているのである。

nano nanoとは製薬会社コニメックスが1989年ごろ発売した甘味酸味咸味でにぎわう
キャンディのことで、各味覚が口中で適度に且つ明瞭に混じりあう感覚が大ヒットを生ん
だ。社会現象としては、焦点がひとつに絞られず、複数の焦点を前にしてたゆたう心理を
強力にバックアップするものとして登場したことがそのヒットを生んだという社会心理学
上の分析になるかもしれないが、インドネシア人の持っている多種類の味覚を同時に楽し
みたい心理傾向にベストフィットしたのがナノナノキャンディだったと言うこともできる
ように思われる。


味覚に加えて歯ごたえもそうだ。インドネシア人には、柔らかいものと硬いものが混じり
あうのを好む傾向もみられる。わたしはインドネシア新参者のころ、ナシチャンプルに必
ずクルプッやンピンが添えらるのになかなかなじめなかった。上述の米国人フランチャイ
ザー代表者ではないが、飯とおかずに煎餅を混ぜて食うインドネシア人の食感覚と食嗜好
はとても奇妙だ・・・・、とまるで同じことを考えた事実を告白しておこう。

おまけにそれらを口の中で割ったりすすったり混ぜたりする音までもが食事の印象を愉し
いものにしたとウォンソ氏は続ける。アジアの伝統では概して、食事の音を善事と価値付
ける姿勢が一般的だったように思われる。現代世界でそれが悪にされたのは、西洋文明の
価値観がもたらしたものだったとわたしは解釈している。あまりにも安易に西洋覇権文明
になびいてしまったアジア人のその姿勢にわたしは反意を向けることが多いのだが、わた
しはフォービアが強すぎるのだろうか?


食事は一枚の大皿の中央に温かい白飯を盛り、ソースのかかったおかずを隣に配する。茹
でたり炒めた野菜が加えられ、揚げ物が数切れ載り、皿の縁にサンバルが置かれる。時に
は飯に濃い汁が注がれて皿の中がバンジルになったりする。最後に飯やおかずにバワンゴ
レンが振りかけられてからクルプッやンピンが載せられて、ナシチャンプルの出来上がり
となる。白飯が皿の中央に鎮座する姿が、インドネシア人にとっての白飯のステータスを
物語っているようだ。

そのステータスが古来からさまざまな飯のバリエーションを生み出してきた。ketupat, 
bacang, lepet, lontong, arem-arem, lemang, buras, bubur, nasi rames, nasi pecel, 
nasi tim, nasi megono, nasi timbel, nasi uduk, nasi lengko, nasi jambleng ,,,

ナシゴレンはヨーロッパのレストランで一般的なメニューになった。アジアからの観光客
が訪れる店には、たいていナシゴレンがメニューの中にある。nasee gorankという名前で
英語の語彙に入ったそうだが、その綴りを使う店はめったに見られず、ヨーロッパのたい
ていの店では原語のままのnasi gorengと書かれている。ところがサテはsatayという英語
綴りのほうが優勢なようだ。sateという綴りはゲルマン語派に由来する別の単語があって、
ヨーロッパ諸国ではその方が有力だったから、無用の誤解を避けるためにはアジア式焼肉
の綴りを変えて置くほうが無難だとされたのかもしれない。

ブタウィを象徴するgado-gadoもその綴りでメニューに載った。そりゃまあそうだろう。
そのエキゾチックな音の響きをヨーロッパ文化のものと混同するヨーロッパ人がいるとは
思えないから。[ 続く ]