「留学史(1)」(2022年10月04日) インドネシア人の海外留学の歴史について語るとき、その嚆矢となるのは多分この人物だ ろう。その名をRaden Saleh Sjarif Boestamanと言う。植民地時代のインドネシア民族を 代表する高名な画家だ。 ラデンサレ・シャリフ・ブスタマン、通称ラデンサレは植民地政庁上層部の引き立てを得 て1829年にバタヴィアから海路ヨーロッパに向かった。かれは20年間ヨーロッパに 滞在してオランダ・フランス・イギリス・ドイツ・イタリア・オーストリアなどを往来し、 アジア人の優れた画家として優遇された。バタヴィアに戻ったのは1852年で、現在の 中央ジャカルタ市チキニ地区の広大な地所を買って御殿を建て、自前の植物園動物園を保 有して一般に公開した。 ラデン・サレの半生記はこちらをご参照ください。 「サレンバ(3)」(2018年04月02日)http://indojoho.ciao.jp/2018/0402_1.htm 「サレンバ(4)」(2018年04月03日)http://indojoho.ciao.jp/2018/0403_1.htm 「サレンバ(5)」(2018年04月04日)http://indojoho.ciao.jp/2018/0404_1.htm 「サレンバ(6)」(2018年04月05日)http://indojoho.ciao.jp/2018/0405_1.htm その次に名前の挙がるのがDrs. Raden Mas Pandji Sosrokartonoだろうか。インドネシア で女性解放運動の先駆者として名高いラデンアユ・カルティ二の実兄がかれだ。カルティ 二はヨーロッパで活躍する兄を羨望し、自分もヨーロッパへの留学に憧れたが、それが実 現することはなかった。ラデンマス・パンジ・ソスロカルトノが妹カルティ二の精神を導 いたと言われており、だとすれば、かれがカルティ二をインドネシア民族の母の座に押し 上げたようなものだ。 中部ジャワのジュパラ県令の家に生まれたソスロカルトノ、通称カルトノはジュパラのE LS、スマランのHBSを終えたあと、オランダのデルフトにある工学高等学校で学ぶた め1898年に渡航した。時に21歳のことだった。しかし工学系が自分に合わないこと を悟ったかれはレイデン大学に移って言語学と東洋文学を専攻し、東洋文学の学士号を得 てドクトランドゥスDrs.の学術称号を手に入れた。かれがレイデン大学での東インドプリ ブミ卒業生の第一号だった。 1917年、カルトノはオーストリアのウイーンで米国ニューヨークヘラルドトリビュー ンの戦争記者になり、月給1,250米ドルを得て第一次大戦下のヨーロッパ各地を取材 のために飛び回った。戦争終結間近になって交戦国が秘密裡に行った講和会議をスッパ抜 き、ニューヨークヘラルドが特ダネ記事をものして世界を揺るがせることが起こった。そ れは無署名記事だったが、カルトノの業績だったことは記者たちの間で知れ渡っていたそ うだ。 インドネシア共和国初代副大統領になったモハンマッ・ハッタの回想録に、ウイーンを訪 れたときにカルトノに会った話が語られている。高額の給料を得て王侯貴族のような生活 をしている様子にハッタは強い感銘を受けたようだ。 第一次大戦後の世界状況再構築のために米国大統領の提唱で国際連盟が発足し、その国際 機構で使われる言語の翻訳を監督する仕事にカルトノが抜擢された。世界の24カ国語を 自在に操る能力を持つかれに国際機構運営者がほれ込んだようだ。かれは1919年から 1921年までその仕事をした。[ 続く ]