「留学史(2)」(2022年10月05日)

Pangeran Aria Achmad Djajadiningratはダンデルス総督の時代に消滅したバンテンスル
タン国の王家の直系子孫に当たる。バンテン王国は滅ぼされてオランダの直轄領地にされ
たのだが、王家が皆殺しにされたわけではない。王家のひとびとはオランダ植民地政庁の
行政機構に入って、各地の統治行政を行う首長になったのである。

1877年にセラン県クラマッワトゥのウェダナの息子として生まれたパゲラン・アリア
・アッマッ・ジャヤディニンラは大ウラマになるためにプサントレンで学び始めた。とこ
ろがある日、パンデグラン県令の伯父の命令でセランにできたオランダ人向けELSへの
入学を命じられ、かれの人生は大きな転機を迎えることになる。かれはオランダ人の子供
のような恰好をして、インランダーをいじめぬこうと待ち構えている白人悪童たちの中に
入って行った。

ELSを終えるとバタヴィアのカヴェドリに入り、かれはそこでWillem van Bantenと名
乗っていたそうだ。オランダ系の印象を少しでも与えて、偏見がもたらす蔑視と見下しを
やり過ごそうと努めていたように感じられる。

カヴェドリでの学業を終えた1889年に見習い官吏となって植民地管理行政の末端に就
き、業績が評価されて1900年にはボジョヌゴロの副ウェダナに抜擢された。翌190
1年にはセラン県令になって父親を後継し、1924〜1929年にバタヴィアの県令を
務めた。

1918年に国民議会が設けられてからはその議員になったし、ほかにも代表者参事会や
東インド議会の議員を務めている。かれは子供のころからオランダ式の教育を受け、また
オランダでの生活を実地に体験して西洋文明を肌で知った当時数少ないプリブミのひとり
であり、東インドの、中でも自分の故郷であるバンテンの開明化にその生涯を捧げた。


Abdoel Rivaiは1871年に西スマトラ州アガムでムラユ学校教員をしている父とブンク
ルの王族だった母の間に生まれた。1886年、まだ弱冠15歳のアブドゥル・リファイ
はバタヴィアのジャワ医学校に入学した。それは両親に祝福されない選択だった。両親は
ブキッティンギにある王族学校にかれを入れたかったのである。ところが、親の言いつけ
通り先に王族学校に入っていた実兄が弟の選択を支持したのだ。兄に支援されて両親の意
に沿わないバタヴィアの医学校に進んだかれは、自分がどのように生きていくべきかにつ
いての基本を少年期に確立させたようだ。

かれが人並外れた知識欲の持ち主であり、しかも自分の目標を達成するためにハードワー
クもいとわない卓抜した精神力を持つ、自己統制に優れた人間だったことの片鱗は、ジャ
ワ医学校時代に既に表れていた。オランダ語を習得しつつ多種の語学力を身に付けるため
に、役所にファイルされているオランダ語の書類をムラユ語に翻訳したり、オランダ人に
ムラユ語を教えたり、さまざまな新聞に記事を書き、あるいは翻訳を行い、また広告宣伝
作りもした。

学校でのあまり時間的な余裕のない学業の合間にそれらを行っていたのは、自分に力を付
けることが主目的ではあったが、それが金になるという見返りもあったからだ。ジャワ医
学校の学生に政庁が支給する奨学金はわずか18フローリンだったのだ。親からの仕送り
を期待しないで暮らすためには、身を粉にしなければならない。

1894年に医学校を卒業したかれは、うれしさと家族への孝行心から自分の肖像画を描
かせて郷里に送った。オランダ風の衣服を着て描かれているアブドゥル・リファイの肖像
画を見た両親は、息子はもう別世界へ行ってしまったという思いを禁じえず、腹立ちと嘆
息の中に沈んだというエピソードがある。

医学校卒業後、かれはメダンの官立病院での勤務を命じられた。だが5年足らずの勤務期
間中にオランダへ留学する決意がかたまり、勤務のかたわらでその準備に没頭する日々が
続いた。メダンであれどこであれ、植民地の官医になって平穏な道を歩む人生を送る気は
少しもなかったということだろう。1899年初、オランダを目指して船に乗ったかれは
そのとき、オランダでの活動資金として2万5千フローリンの金を携えていた。[ 続く ]