「留学史(3)」(2022年10月06日)

オランダに着いたかれをファン・デフェンテールやエイクマン教授たち東インド経験者が
受け入れて面倒を見てくれた。なにしろ、オランダに医学の高等教育を求めてやってきた
はじめてのプリブミがかれだったのだから。

1907年にアムステルダムで学業を終えてから、更に博士号に挑戦してベルギーのヘン
ツ大学で博士課程に進み、1908年に学位審査をパスして博士号を授与された。ヨーロ
ッパで博士号を得た東インドプリブミの第一号がアブドゥル・リファイだった。

東インド植民地軍の軍医としてバンドンのチマヒで勤務するために、かれは1910年に
東インドに戻り、その後東インドの各地を軍医として転々とした。プリブミドクトルの第
一号となったかれは、医師としての能力と手さばきの良さでたいそうな評判と信頼を獲得
したという話だ。


かれは1900年に学業のかたわら、アムステルダムでムラユ語新聞Pewarta Wolandaを
発刊した。これもオランダ始まって以来のできごとだった。かれはこの自分の新聞を育て
ながら、オランダや東インドの新聞に記事を投稿した。オランダ語の新聞Oost en Westや
Algemeen Handelsbladにもかれの記事が掲載された。記事内容が東インドにおける植民地
政策と封建層のあり方に対する辛口の鋭い批判に満ちていたことで知識層読者に好評を博
し、アブドゥル・リファイの名は記者としての定評を得た。世間一般には、優れたドクト
ルとしてのかれよりも、ジャーナリストとしてのかれの顔の方が有名だったようだ。

アンリ・コンスタン・クロード・クロックナー・ブロウソンと意気投合したかれは、19
01年に新聞Bendera Wolandaをスタートさせ、1902年にはBintang Hindiaを立ち上
げている。またヨーロッパにいる間、記事作りの他にも文学の翻訳を行い、エミール・ゾ
ラの小説などを翻訳した。

1918年には国民議会議員になり、1923年まで三期にわたって議員を務めた。その
間、1919〜1921年にヨーロッパ一円から米国までの周遊旅行を行っている。以後
バタヴィアに住んでBintang Timur紙の育成に努めた。

1926年11月にかれが東インドからヨーロッパに向けて行った船旅の旅行記が、たい
して間をおかずにビンタンティムール紙に掲載された。当時の船旅を感性豊かな文筆家が
書き残した記録として一読に値するものと思われるので、ここにご紹介しようと思う。本
論の主題と無関係とはいえ、当時の留学生たちも同じ光景を目にし、似たような体験をし
たはずだから、かれらの心のひだが覗けるかもしれない。


20日午後4時にタンジュンプリオッ港を出た船は、22日午前7時にシンガポールに着
いた。わずか39時間の航海だ。シンガポールはフリーポートであり、物品の出入りに関
税がかからない。この町の中であらゆる人種が混じりあって暮らしている。イギリス人・
オランダ人・ドイツ人・日本人・北インド人・南インド人・アルメニア人・アフリカ人・
中国人等々。

シンガポールの町の構造と様式はイギリスのそれに似ている。すべての道路や広場はイギ
リス式の書き方で名前が表示されているし、華人の店名の看板も英語式綴りだ。すなわち、
シンガポールの言語や文化はイギリスの影響を強く受けていることがそこに示されている。
イギリスで暮らしたことがある者には、シンガポール住民の精神がイギリス文化で染め上
げられているのを感じ取れるはずだ。[ 続く ]