「留学史(6)」(2022年10月11日)

タンジュンプリオッからシンガポールまではK.P.M.(オランダ王国貨物海運会社)の
船で来た。シンガポールからわたしはNorddeutscher Lloydの船に乗った。ノーツドイチ
ャーロイドの船はジェノヴァまたはロッテルダムへ向かうのだ。この船にはK.P.M.と
異なる特徴がいくつかある。

その1.船員は力仕事から雑用係にいたるまで、すべてヨーロッパ人だ。そのために船が
出港したあとは、もうヨーロッパの中にいるような気分になる。オランダ船のように、
「ジョ~ゴス、パヒッを持ってこい!」「ジョ~ゴス、寝てばかりいるんじゃない、パンチ
ル!」などの叫び声を聞かされることがない。

その2.港に着いて、さまざまな人種が乗客を見送るために船に上がってくると、英語ば
かりが聞こえる。ところが船が港を出てしまうと、聞こえてくるのは英語・ドイツ語・オ
ランダ語になる。つまり船に乗っているのはイギリス人・ドイツ人・オランダ人だけみた
いだ。

その3.船が出港するとき、音楽が演奏される。楽団員は6〜7人だ。演奏されるのは行
進曲。あるときイギリスの民族曲が演奏されて、あたりの乗客がみんな脱帽した。4時半
にまた音楽演奏があった。夜7時からのディナーでもロマンチックな音楽が演奏される。
ノーツドイチャーロイドの船に乗るオランダ人も少なくない。かれらがこの船を好むのは
船賃が安いからだ。二等の船賃はオランダ船の三等とあまり違わない。一等はオランダ船
の二等と同一で、特別キャビンもオランダ船の一等と同じ。

もうひとつ別の理由もある。オランダ植民地政庁高官はこの船に乗らないのだ。だから偉
そうに構えて傲岸な態度を見せる人間は乗客の間にいない。余人の及ばない巨額の給料を
取っていたり、東インドで高い地位に就いて権力を振り回しているために胸を張ってふん
ぞり返るような乗客は船内のどこにも見当たらないのである。

ノーツドイチャーロイドの乗客はみんな普通のヨーロッパ人だ。ヨーロッパに住んで、互
いに敬意を示しあい、また社会生活における礼節を十分にわきまえている普通のヨーロッ
パ人たちなのだ。「このサルはここで何をしてるんだ」と目で語り掛けてくるような乗客
に、この船の中でわたしはまだ遭遇していない。ヨーロッパからインドネシアへ戻るイン
ドネシア人たちがノーツドイチャーロイドに乗るのを選ぶようになってきていることの理
由もきっと同じものだろう。

どのヨーロッパ船にもあるように、この船にもバーがある。しかしこの船はバーの開かれ
る時間が2時から4時までになっていて、通常行われているような一日中開かれるもので
はない。そのせいだろうか、その時間は船員たちの休憩時間になっている。

この船を選択しようと考えるインドネシア人は前もって知っておかなければならない。食
事はすべてヨーロッパ式であるということを。白飯が必ず付くオランダ人のレイスタフェ
ルの存在は期待できないのだ。


船がブラワンに到着したとき、シンガポールを出港した時のように心弾ませる音楽演奏が
行われた。たくさんの乗客がメダンへ行こうと手ぐすね引いて待ち構えている。ブラワン
到着は夕方6時。出港予定は翌日1時で、このあとサバンへ向かう。どうしてそんな長時
間、ここに滞留するのかというと、6千ケースのタバコを積み込むためだ。

乗客が港に降りたとき、ブラワンからメダンへ行く最終列車は既に出たあとだった。メダ
ンへ行きたい者は自動車を使わなければならなかった。

わたしは27年前にメダンを去って、今久しぶりにメダンに戻ってきた。27年前のメダ
ンはだだっ広い土地に木造の大きい建物がいくつかあるだけの町だった。病院・レシデン
庁から監獄に近い橋までがサワハン地区だ。サワハンのそんな昔の風景は27年という時
間の中に埋没していた。

要塞正面の右手には木造の士官用住居があったが、今ではそこに市庁舎があり、竹葺き屋
根の兵営がある。左側は駅の裏手に当たり、鉄道員官舎がある。病院とスルタン寮の間に
は小さい家がいくつかあっただけなのに。[ 続く ]