「留学史(7)」(2022年10月12日)

今やメダンは大きな町になった。昔ただの草地だったポロニア地区には壮麗な建物が並ん
でいる。道路はすべてアスファルト舗装され、夜は電灯の光に照り映えている。水道もい
たるところにある。長い歳月はメダンの容貌をすっかり変えてしまった。

昔スルタン宮殿はひとつだけだったが、今では三つになり、古い宮殿の表には荘厳なモス
クが建っている。残念ながらスルタンの王宮群はムラユ的性質を映し出す鏡になっている。
道路から見た感じでは、整然さや清潔さが物足りない。塗装ははげ落ち、屋根や壁には長
い間職人の手が入っていない様子が見て取れる。壁はまるでペンキ塗り職人と喧嘩別れし
たみたいだ。庭園も腕の良い庭師がもっとうまく整えられるように思われる。

モスクも宮殿も素晴らしい形で作られているというのに、われわれの目は若い娘を見て心
に歓びをもたらすときのような働きをせず、若いころにゴキブリのような暮らしをしてい
た老婆を見ている気持ちにさせてくれる。所有物がいつまでも自分の目を楽しませてくれ
るように事細かく手入れをしようという考えはまだムラユ人の精神の中に宿っていないよ
うに見える。

新しいのはバグースだ。古くなった物は、たとえ作りがよくできていても、大切でなくな
る。古くなって役に立たなくなったり壊れたりしたら、また新しいのを作ればいい。それ
で何が悪い?金はたくさんあるのだ。・・・・ヨーロッパ人はそのような姿勢を「不経済」
と呼んでいる。

メダンの先住民の姿をほとんど見かけない。町中で目にするのはヨーロッパ人・ジャワ人
・パダン人・バタッ人ばかりだ。ムラユ人の王が住んでいる宮殿はムラユ文化のセンター
になっていない。ジャワでソロやヨグヤカルタがジャワ人の文化センターとして栄えてい
るのと対照的だ。

今ここでそれらの分析はしない。わたしはただ見て思っただけのことを書いておく。船は
夕方6時に音楽を奏でながらブラワン港を出発してサバンに向かった。


乗客がひとりこの船に乗り込むだけなので、サバンでは入港せず、沖合に停泊して乗客が
小型蒸気船でやってくるのを待つだけだった。サバンはウェー島にある小さい町で、ウェ
ー島の向こうにブラス島がある。海から見るとその島々は緑の密林に覆われていて、農園
や水田の存在が感じられない。元々が無人島だったのではあるまいか。

サバンには石炭補給ステーションの他にドックと精神病院があり、軍隊が駐留している。
そこでの通商は大した規模ではない。オランダ人はサバンをシンガポールのような通商都
市にしようと構想しているそうだが、それは夢でしかないようにわたしには思われる。


船がサバンを離れるとインドネシア人にとっては、わが祖国インドネシアが波涛の向こう
に置き去りになっていく感慨を抱かずには済まないだろう。こんな状況に置かれたインド
ネシア人はだれでも、「さらば、祖国よ」と心の中でつぶやくのではあるまいか。

ここ数年、インドネシアからヨーロッパに学問を求めて渡航する青年の数が増えている。
たいていはヨーロッパで修得した学問技術を携えて故国に戻ることを望んでいるようだが、
故国が今のままであれば戻る気はない、という青年も中にはいる。

今のインドネシアの青年層にとってヨーロッパに渡ることは夢であり、ヨーロッパで何年
か暮らして学問技術を身に着け、それを土台にして故国で就職し、生計を確保して生きて
いくのがその夢の実現だと考えているようだ。

その考えは間違っている。そんな考えでヨーロッパに留学してから故国に戻ってきたとき、
待ち受けているのは思い通りにならない現実に苦悩する自分の姿だ。ヨーロッパに留学す
るということについて、ここで少し分析をしてみよう。ヨーロッパへ行ってしばらく暮ら
す意図は何なのか?[ 続く ]