「マルチ肉食(6)」(2022年10月11日)

ミナハサ人がマルチ肉食をするのは、森林が与える恵みを享受してきた原始人精神の名残
だろうか。珍しい動物の肉を食うのは過激食志向の精神に通じている気配を感じるし、祝
祭を祝うときにその祝祭が特別なものになるという効果を狙う意向も感じられる。

肉自体が美味いかどうかはきっと別問題だろう。人間の口を辣味で燃やしてやれば美味い
まずいとは無関係に何でも食べられるのだから、食材の珍しさだけが意識の中心に置かれ
る結果になって、珍肉の価値が大幅に高まるにちがいあるまい。ミナハサ人の辣味極道は
どうもそんな辺りに関係を持っているのではないかとわたしは勘繰りをするのである。

辣ければ辣いほど食べ物は美味しいとかれらが言うのも、珍肉との関わりの面からそれを
見るなら、その合理性が納得できるようにわたしには思われるのだ。


人間は自らを他の動物たちよりも上に位置付けて、地球上の支配者だと見なしている。そ
の根拠のひとつとして挙げられるものが多分、他のあらゆる動物種に対する生殺与奪の力
ではあるまいか。現実に人間は動物種のいくつかを絶滅させてきたそうだ。

他者に対する究極の支配が「殺す」であり、殺されることによって相手は永遠の服従者と
なる。死者は自由な意志を持つこともしなければ、反逆もしない。それらは生きている時
にしかできないことなのだ。人類の歴史が殺戮で埋め尽くされてきたのは、支配されるこ
とに対する拒否が有力な動機になっていたからではないだろうか。その面から見るなら、
かつての人類がいかに他者を支配するというオブセッションに強く深く取りつかれていた
かが見えてくるだろう。いや、三つ子の魂はミレニアムをも突破するのだ。

だから他者に対する究極的支配が「殺す」であり、「殺すぞ」が支配するための威嚇の言
葉に使われた。その言葉は「我に平伏せよ」と他人に命じることを意味していたから、命
じられた者は平伏するか殺されるかしかなかったわけだ。


殺す力が人間でなくて自然界に向けられた時、殺された動物の肉を食うことが行われたの
は自然なことだったように思われる。飢餓対策は言うに及ばない重要なことがらだが、そ
れだけでなくて自分が支配した相手の肉を食らうことは、自分が支配者の立場にあること
を勝者の誉れとして自らに印象付ける場になったのではあるまいか。

スマトラのある種族は、自分が倒した敵(人間)の肉を食って、その強敵の力をわが身に
取り込もうとした。それは自分が勝者になったことを確認する機会でもあったはずだ。食
われる者は敗者であり、自分は勝ったから食う方にまわったのだ。自分より下位にある動
物の肉を食って、人間はそれらの動物よりも上位にあるのだという確認を古代人が行って
いた可能性は否定できないのではあるまいか。

だから肉を食う行為が上位者支配者を示すものという意識が脳細胞の片隅に刻み込まれて
いたとしても不思議はあるまい。ヌサンタラでもっとも肉食糧の多いミナンカバウ人がわ
たしに示したエピソードがある。あるときミナンカバウを訪れたわたしは、ミナンカバウ
人とレストランでテーブルを囲んだ。テーブル上に所狭しと置かれている皿の大半が肉や
魚の料理であり、野菜料理は微々たる数しかなかった。肉よりも野菜を好んだわたしは、
野菜の方を多量に皿に置いて食べていた。するとミナンカバウ人が肉をもっと食べるよう
に勧めたので、わたしは肉よりも野菜をたくさん食べる方を好むと返事した。「そりゃま
るで家畜のような・・・」というコメントをそのときわたしは耳にしたのだ。

わたしはそのときかれらが持っている、動物界での王者・支配者としての人間という価値
観と、肉食が王者・支配者という地位にある人間の証明というか確認というか、かれらの
文化を構成している人間観がきっとそのようなものなのだろうという解釈をした。

野菜ばかり食う家畜並みの人間は地上の王者の地位を保てないと言われたような気がした
ことを記憶している。支配+殺す+肉食というわたしの三題噺はうまくつながっただろう
か?[ 続く ]