「マルチ肉食(7)」(2022年10月12日)

日本語の「殺す」が使われている一連の複合動詞、刺し殺す・撃ち殺す・斬り殺す・憑り
殺す・縊り殺す、などの中に「食い殺す」という不思議な言葉があるのを読者の皆さんは
きっとご存知だろう。

「殺す」が使われている複合動詞は一見して、すべてが殺し方、殺す方法や手段を分類し
ているように見える。「褒め殺す」にしたところで、褒め上げる手段で対象者を半殺し状
態にすることを意味しているのだから、「殺す」の前に付けられている動詞は「食い」を
含めて方法や手段を示すものと解釈できるように思われる。

このロジックに従えば、「食い殺す」が意図している意味は「食うことによって生きてい
る者を殺す」「食う方法で相手を殺す」「相手を食いながら殺す」を語っているのではあ
るまいか。わたしがその言葉から感得する語感はそう告げている。


ところがオーセンティックな定評を持つ辞書の「食い殺す」の項にはこの語の意味が「食
いついて殺す」「噛んで殺す」という語義で記されている。「噛んで殺す」には「噛み殺
す」という別の語彙があるから、「食い殺す」と「噛み殺す」が同義であると辞書編纂者
はおっしゃっているようだが、われわれが脳裏に描き出すイメージはその二つの間で明ら
かに違っている。

「食いついて殺す」ならピラニアのような集団が生きている者の身体にむしゃぶりついて、
その肉を食いながら殺していくイメージに導かれる。一対一で対決する殺し合いの場合に、
食いつく動作によって相手を殺すに至るのは生易しいことではあるまい。

わたしは広辞苑に書かれたそんな語義に、「食い殺す」という言葉に対して辞書編纂者が
抱いた大いなる当惑を感じ取るのである。「食い殺す」が読者に与えるイメージはけっし
てそんな語義と一致するものではない。われわれは獰猛な熊や鮫が、あるいは肉食恐竜が
獲物を生きたまま食うありさまをまぶたの裏に見ているのだ。


しかしこの言葉の構成を見るなら、「食い」という行為を殺す目的に使うことがあり得る
のだろうかという疑問が浮かんでくる。獰猛な熊や鮫、あるいは肉食恐竜が獲物を生きた
まま食うのは果たして、「殺す」のを目的にして行っていることなのだろうか?

かれらカーニヴォア(肉食動物)は飢餓を避け食欲を満たす本能に動かされて「食う」の
であり、食うこと自体がその目的になっていたのではないだろうか。だから「殺す」はか
れら自身が意図していない、単なる結果として付帯的に出現する現象でしかないのではあ
るまいか?言い方を換えるなら、「食い」という行為は本当はそれ自体が目的なのであっ
て、「食い」という行為と「殺す」という目的は現実世界において両立しないように感じ
られる。

多分この観点が辞書編纂者に当惑をもたらしたのではないかという可能性をわたしはおぼ
ろげながら妄想するのである。他の「殺す」複合動詞が方法・手段と目的のセットになっ
ているのに反して「食い殺す」は現象的な因果関係を示しているだけという点に大きい違
いが見られるのだ。だからその観点から見るなら、動物界にあるのは「食う」が目的であ
り、強いて言うなら「その結果相手が死ぬ」のであって、意志的語感を持つ「殺す」の使
い方は場違いであると批判されても仕方あるまい。

一方の人間界ではどうかと言うと、こちらも人間の実相として、殺したい相手を食う手段
で殺すという話にはついぞお目にかからない。殺しておいて被害者の人肉を食った話には
事欠かないが、生きている人間を食いながら殺していくほど悠長な人間は、もはや人間の
資格を持たないのかもしれない。東洋のある国では人間が魚介類を生きたまま食っている。
しかしその場合ですら、「殺す」は単なる付帯的現象としてしか起こらないから、「食い
殺す」という語感からの乖離は避けられない。[ 続く ]