「マルチ肉食(終)」(2022年10月13日)

生物界で「食う」と「殺す」は相互に関連性を持たない別々の行動であり、人間や他のカ
ーニヴォアもそれらを分離して行動するのが普通であって、それをひとつにインテグレー
トして「食う」と「殺す」を同時に満たそう、あるいは「食う」を「殺す」の方法・手段
にしようとする者がどれほどの確率で存在し得るかということを考えるなら、期待値は限
りなく低まるようにわたしには思われるのである。

ごくたまに常軌を逸した者が出現しないとも限らないにせよ、平常論から言うなら、「食
い殺す」という表現は上の分析から、きわめてリアリティのない現実性に欠けた表現であ
るように思われる。


とはいえ、支配に関する三題噺の要素をふたつも組込んだこの表現はシンボリックな用途
に使いみちがあるかもしれない。いや、あったとしてもシンボリックな使い方しかないと
いう言い方の方が適切だろう。

現実性を持たないことの証明は、たとえば他人を威嚇するとき、「食い殺すぞ!」と「殺
すぞ!」ではドスの効き方が大違いになる点を見れば分かる。「食い殺すぞ!」だと相手
が噴き出すのがオチだろう。なぜなら、人間は現実にそんな行為を行わないことをみんな
が本能的に知っているからだ。上で分析した通り、あり得ない話になるのである。

ただの観念的な恐怖感は空中浮遊しているだけのものだから、現実世界の中では地に足の
付いている現実的な恐怖感にはたき落されてしまう。地に足の着いていないものはパワー
を持てない。パワーのないものが何かを動かそうとしても、できるはずがないだろう。観
念論者の弱点はそこにある。頭の良い観念論者が激増するような教育システムを作った人
類の未来は果たしてどうなっていくのだろうか・・・


「食い殺す」はどう見ても不思議な表現であり、より現実的な表現としては多分「食われ
て死ぬ」の方がずっと正確な言葉の使い方だろうという気がする。しかしながら、「死ぬ」
が多少の恐怖心を引き起こす要素を持っているにせよ、「殺す」がかき立てる畏怖恐怖と
肩を並べられるほどではない。「殺す」が持つインパクトはすさまじいものがある。何し
ろ他者支配のための黄金の剣なのだ。

「食い殺す」が日本語の中でどうして熟語として確立したのかという疑問を解きほぐして
みたとき、「食われて死ぬ」の同義語として「食い殺される」が見つかった。「死ぬ」よ
りも「殺される」の方が多量の恐怖感を振りまいているではないか。

古代日本人が抱いた恐怖感の中に、人間がカーニヴォア型の怪物に生きながら食われて死
んでいくイメージがあったのではあるまいか。そのイメージはたいていの人間に戦慄を誘
うものだったはずだ。つまり「食い殺す」の被害者になる恐怖だ。恐怖感は受身形の中に
出現したのである。こうして「食い殺される」は地に足のついた現実的な言葉として日本
語の中に確立された。


日本語の中で受身形と能動形の形式転換は頻繁に、且つ容易で安易に行われる。「食い殺
す」は形式をいじくる中で出てきたものであり、生活の中でこの言葉が実感を持って使わ
れることはそう頻繁に起こらなかったのではあるまいか。なぜなら、「食い殺される」の
加害者について物語るとき以外に、現実に起こるできごとという実感を持って「食い殺す」
を使えるケースがどれほどあったことか。比喩表現であれば話は違うが、比喩表現という
のは空中浮遊する性質を濃く持っているから、やはり地に足のついたものにはなりにくい
だろう。

受身形が実用性を持ち、能動形は空中浮遊するばかり、というこの不思議な言葉も、近代
以降に日本語のシステム化が進められたとき、標準表現形式として定められた能動形の終
止形という形に合わせざるを得なくなった。その原則に合わせて辞書を作れば、空中浮遊
する言葉の語義探しに困惑して当然だろう。この言葉だけは辞書の中で受身形の語彙とし
て採録してほしいものだ。[ 完 ]