「あやまりとあやまち」(2022年10月14日)

ライター: インドネシア語シソーラス編者、エコ・エンダルモコ
ソース: 2018年3月31日付けコンパス紙 "Salah" 

インドネシアの報道メディアはけっこう頻繁に軽量級犯罪者が警察署に引っ立てられて行
くニュースを報道する。たいてい画像や短いビデオが添えられているのが普通だ。オレン
ジ色のチョッキは着ないのだが、犯罪者たちが恥ずかしさと罪悪感rasa bersalahを身辺
に色濃く漂わせている姿をわれわれは目にする。

それと正反対なのが高い社会ステータスを持っている汚職者たちの姿だ。吐き気を催して
当然だが、事実そうなのだ。カメラ意識を強力に持ち、恥の神経が欠如したコンクリート
壁のような面の皮を持つかれらはオレンジ色のチョッキを着て、自信満々の姿で汚職撲滅
コミッションのオフィスに登場する。微笑みを浮かべながらしげしげとカメラのレンズに
視線を配る。微笑みあふれる自信満々の姿は、裁判で有罪の判決が下されるまで自分は悪
くないtidak bersalah(と見なされなければならない)ことを承知しているからだろう。


上の例から、salahという語が持っている語義の中に次元の異なるものがあることを明瞭
に感知できるのではあるまいか。rasa bersalahという表現の中に、われわれは次元が異
なるものを感じ取る。このkeliruとは違っているsalahのニュアンスは、normal, lurus, 
tertib, alimからの逸脱を示している。つまりモラル的な意味合いを強く持っていること
を示しているのだ。

算数で加減乗除の結果が間違っているときに使われるsalahのような、一般的に理解され
ているtidak betulとは異なっているのである。このような異色的salahの用法を、salah 
sangka, salah ucap, salah jalanなどに見られるようなmenyimpang atau berbeda dari 
yang sehrusnyaという意味にとらえてもよいだろう。


keliruはsalahが一般的に持っている語義に対する同義語だ。われわれはkeliruの語に関
して、まっすぐな論理の流れやプロセスからの乖離という意味を見出す。上述の算数計算
の結果に関するようなもの、あるいは緊急医療処置が必要な交通事故犠牲者を映画館や食
堂に運び込んだり、医者がくれた一日三回飲む薬をまとめて一度に飲んでしまうようなこ
とだ。法の番人たちは歪んだ行為から免れているという考えも同じようにkeliruなのであ
る。法の番人のケースでは、salahとkeliruの異なっている意味をより明瞭に見ることが
できるだろう。その考えについてはkeliruなのだが、歪んだ行為はsalahであってkeliru
ではないのだ。

インドネシア語の中でsalahとkeliruの二語はたいへん近い関係に置かれてきた。keliru
は容易にsalahに置き換えられた。
Jawaban ujian dia banyak yang keliru/salah.
Pandangan yang keliru/salah.
Banyak mitos yang terbukti keliru/salah.
しかしrasa bersalahをrasa keliruと言い換えることはできない。


以上で明らかになったと思われるのだが、インドネシア人はsalahとkeliruの間に観念上
の違いが存在することを言葉を通して理解しているのである。その二語の間の違いが鮮明
でないという意見は、salahがモラルにより近いニュアンスを持ちkeliruはモラル的な価
値観に無関係な事実を指しているという違いが言葉の用法によって示されている通り、イ
ンドネシア人は十二分な感性や能力を持ってそれらを区別していることが確信されるため、
否定を免れないはずだ。

あるいはひょっとして、インドネシア語のsalahという語彙をdosaに読み替えているひと
がいるのだろうか?そのようなプロセスは極端であるだけでなく、文中のひとつひとつの
単語の語義が文脈の中で明らかになるのだという原理を忘却しているにちがいあるまい。