「留学史(11)」(2022年10月18日)

コロンボからスエズまでの航海に14日かかった。乗船客が退屈しないよう、毎日午後に
スポーツゲームが催され、夜には音楽会が開かれた。ペリムに到着する前夜はコスチュー
ムパーティで盛り上がった。

船はペリムからジェッダの対岸にあるポートスーダンへ向かい、そこの石炭補給ステーシ
ョンで補給を行ってから二日後にスエズ運河に達し、スエズ運河を越えてその玄関口であ
るポートサイドに入港した。わたしはスエズの町で船から降りて、エジプト王国の首都カ
イロに車で向かった。このエジプトの地はアルクルアンにムシルの地という名で登場する。
エジプト年代史はたいへん古い時代にまでさかのぼって記述されている。


カイロの町はたいへんに素晴らしい。アフリカからアジアに至る地域で有数な素晴らしさ
だと言えるだろう。このカリフの町はふたつに分かれている。ひとつはアラブの夜と呼ば
れている旧市街、そして新市街の方はヨーロッパの都市と見まがうばかりのすばらしさで
作られている。アラブの夜地区はハルン・アラシッHarun ar Rasjidが生きていた時代か
ら変化していないように見える。道路の左右は街路樹が憩いをもたらし、小さい店がつな
がり、モスクとカフェが心を誘う。新市街へ行くと大型ホテル・劇場・博物館・モダンな
カフェなどがあって、ヨーロッパの町のように美しく整った姿を見せている。ヨーロッパ
人がカイロを訪れるのは10月から4月までの冬の季節だ。今年もヨーロッパ人が大勢カ
イロにやって来ている。劇場では毎晩、オペラや演劇のショーがある。

カイロの街中ではアラブ語の他にフランス語と英語が聞こえた。イタリア語を話している
ひともいた。よく知られているようにカイロにはイスラム教大学があって、さまざまなイ
スラムの国々からそこへ留学に来るひとたちがいる。ムラユ・ジャワ・スンダのひとびと
もその留学生たちの中にいる。インドネシアから来ている留学生たちはだいたいにおいて
貧困生活をしている。

留学先での土地でどのような生活を送るのか、それにどのくらいの費用がかかるのか、と
いったことがらの準備が十分になされないまま、故国を出発したのだろう。その貧困のせ
いで学問習得に十分な時間とエネルギーを割くことができず、学習の成果が不十分になっ
ているのではないだろうか。

インドネシア人留学生たちはもうひとつ別の問題を抱えている。カイロの大学で授けられ
る学問を受け入れて咀嚼するのに必要な素養が不足しているのだ。かれらは一般的な知識
と教養が不十分であり、おまけにアラブ語がろくに話せない者までいた。

カイロの大学で学びたいプリブミ青年たちのために留学の世話をする機関をインドネシア
のイスラム界はどうして作らないのだろうかという不思議の念がわたしに湧いた。留学基
金を設けて留学を望む青年たちに資金の支援をしてやり、同時に最高の効率で学問が修得
できるようにするために何が必要なのかを教えてその準備をさせるようなことはできるは
ずだ。イスラムに関する教養をもっと深めさせ、またアラブ語に慣れさせた上で送り出せ
ば、カイロでの学習はもっと効果的なものになるにちがいあるまい。そして乞食と紙一重
の暮らしを留学生にさせなくてもよくなるだろう。


エジプトの政治情勢もジャワとよく似ている。エジプトの青年層もイギリスの支配からの
独立を望んでいるのだ。イギリスは嫌われている。ところが古い世代は青年層の肩を持つ
ことをためらっている。イギリスの黄金がかれらの金壺に落ちる時に立てる音があまりも
心地よいからだ。それがために古い世代はイギリスの銃と大砲の後ろに立ち、青年層だけ
がその矢面に立たされている。イギリス人はエジプト人を、自分の土地と人民を正しく統
治できるほどにまだ成熟していないと見なしている。

カイロからあまり遠くない、サハラと呼ばれる砂漠の中にピラミッドとスフィンクスがあ
る。ピラミッドの下には昔のエジプトの王が葬られている。エジプト人の中にはヨーロッ
パの大学で学んだひとがたくさんいて、知識層を形成している。また巨額の財を有して資
本家になっているひとたちも、イギリス領のインドと同様に少なからずいる。しかし現在
のようなイギリスとの関係を覆すことは、インドと同様にまだ難しい。

わたしはスエズの町からカイロへ自動車で行き、カイロからポートサイドへは列車を使っ
た。料金は廉いものでなかった。ほとんど百フルデンの支出になったのだから。 : ポ
ートサイドにて、1926年12月16日
[ 続く ]