「留学史(12)」(2022年10月19日)

船はそのあと地中海をジェノヴァに向かったが、激しい風浪のために到着が航海日程から
まる一日遅延してしまった。東方からヨーロッパにやってきた船はまず例外なくジェノヴ
ァ港に入り、乗客は陸路フランスへ、パリやロンドンや、更にアムステルダムからドイツ
にと散って行く。

アブドゥル・リファイもジェノヴァで上陸して陸路ヨーロッパ内を旅しながらオランダに
向かったので、この船旅の随筆はジェノヴァで終わった。かれはジェノヴァからローマを
訪れ、また引き返してフランスに入り、いくつかの町を見て回ったあとアムステルダムに
行ってインドネシア留学生たちと会う日程を組んでいた。ところがジェノヴァ到着が遅れ
たために、ローマ行きが反故になってしまい、ジェノヴァからそのままフランスに回るこ
とになっしまった。

アムステルダムやロッテルダムを目指してはじめてヨーロッパにやってくる留学生がそん
なルートを取るとは考えにくい。かれらはきっとオランダまで船旅を続けたにちがいある
まい。


上に例を挙げたひとびとが紡いだ海外留学史の初期の時代に、オランダで学ぶ東インド青
年の数はまだ微々たるものだった。しかしその19世紀末から20世紀に移り変わる時代
を超えて数十年経過した1926〜27年ごろになると、人数はかなり増加した。オラン
ダで留学生活を送っていた東インドプリブミ青年はおよそ60人いた、とその時期のオラ
ンダ留学生だったひとりは書いている。そのほとんどはレイデンで法学と東インド学、ヴ
ァヘニンヘンで農学、デルフトで工学、ロッテルダムで経済学、アムステルダムで医学を
学んでいた。

さまざまな条件においてオランダへの留学が便利さで優っていたとはいえ、ドイツ・オー
ストリア・スイスなどオランダ外のヨーロッパへ留学したプリブミ青年もいたし、エジプ
トや米国を目指した者もまた別にいた。


人数が増加した時代ですら、オランダ留学生はたいていがプリブミ社会のエリート階層の
子弟であり、中でも植民地での学校教育の中で淘汰された頭脳優秀な者であることが基本
条件になったようだ。高等教育を受ける目的は社会の中で活躍する専門家になるためであ
り、法律家・医師・建築家・農業指導者・都市計画家などの職業に就いて生計の道を確保
すると共に社会を指導する仕事を行うのがかれらの夢になった。

学業を終えて故国に戻れば、まだまだ後進的な東インドの民衆に自分たちが新しい時代を
与えてやることができるはずだ。その方法論を考えていく中で、留学生たちはふたつの方
向に分裂した。故国が現在置かれている状況の中でそれを行うなら、現体制を強化する結
果に向かうだろう。故国を支配している植民地主義者がそうでない方向を受け入れること
など考えられないのだ。

しかし現体制の下であっても、故国の文明化を行うかぎり、同胞たちは新しい生活を享受
できるのである。そう考える者は体制非協力の姿勢を採らなかったものの、民族独立のほ
うが重大事なのだと考える者たちは別の動きを始めた。

前者に属すと見られている著名な人物は、上記のパゲラン・アリア・アッマッ・ジャヤデ
ィニンラをはじめとして、バンドンの有力な内科医ドクトル・シム・キーアイ、バタヴィ
アの医師ドクトル・アシキン、パゲラン・クスモユド、ラデンマス・マルゴノ・ジョヨハ
ディクスモたちだ。

一方後者に属したのは、後のインドネシア独立の動きの中で名前をしばしば耳にした次の
ようなひとびとだった。モハンマッ・ハッタ、アッマッ・スバルジョ、イワ・クスマスマ
ントリ、ドクトル・ストモ、ドクトル・グナワン・マグンクスモ、メステル・スナリオ・
・・・・
[ 続く ]