「プルメン(後)」(2022年10月18日)

ライター: ジャーナリスト、アンドレアス・マルヨト
ソース: 2007年8月15日付けコンパス紙 "Permen Jahe, Kisah Panjang Kem-
bang Gula" 

砂糖は白さによって等級が三段階に分けられた。第一級の一番白い砂糖がヨーロッパに送
られた。第二級はインド西部に送られ、最低級の茶色っぽいものが日本に送られた。砂糖
を使った製品も作られて輸出された。その中のひとつがプルメンジャヘだったということ
のようだ。


プルメンの由緒を探る中で、スマランの古書コレクターであるハンドコ氏の蔵書の中に3
4ページの小冊子が見つかった。表紙には$の巾着を掲げて走る、ヘルメットだけであと
は素裸のヘルメスの姿が描かれており、タイトルはこうなっていた。
Atoerannja 
Membikin Permen
Keombang Goela

Boekhandel
Kartti-Dharma
Toeloengagoeng

著者はRadiusと名乗る人物で、1936年の出版になる。「プルメン製造の希望を満たす
に足るムラユ語の書物がいまだにないことから」と著者はその中で謳っていて、インドネ
シア人の間にプルメン製造が家内工業の形ですらまだ起こっていなかった状況が推測でき
る。つまりそのころまで、プルメンの製造技術はオランダ語で書かれたものしかなく、実
際の生産も西洋人たち社会エリートが一手に握っていたのが実態ではなかっただろうか。

そこから解るように、プルメンは明らかにオランダ人がヌサンタラにもたらしたものだっ
たように思われるのである。

その書には、そのころヌサンタラ社会に流通していたクンバングラの種類が次のように記
されている。bonbon, permen strong peppermint, grip, permen kenari, permen kopi, 
permen busa, permen gombal, pastiles

この書物もまたプルメンとクンバングラの用語の混乱を示していて、プルメンという言葉
が登場したとたんに、それまでヌサンタラで使われていた概念が混乱に引きずりこまれた
様子が見て取れる。


プルメンジャヘに話を戻そう。このクンバングラの一種はまだあちこちで見かけられては
いるものの、見つける機会が減っているのも事実だ。かつて包装紙は油紙だった。それが
素朴なプラスチック紙に変わり、最終的に成形プラスチックの包装になった。飴はオブラ
ートに包まれていて、そのまま一緒に食べることもできる。

やはり古くからあるもののひとつがkembang gula asemだ。これについては書いてある古
文書がほとんど見つからない。だがタマリンドの木が豊富に存在していたことは、西洋人
旅行家がヌサンタラにやってきたとき、十二分にかれらの目を引き付けた事実から判る。
ジョン・ジョセフ・ストックデールもその著に書き残したし、米国人アルバートSビック
モアも1868年に著した書物Travels in The Eastern Indian Archipelagoの中にタマ
リンドの木の印書を書いた。

ビックモアはクンバングラアスムについて何も書いていないが、スラバヤの道路沿いに立
ち並ぶタマリンドの木が落ち着いた緑陰を作り出している情景を印象深く書き綴った。あ
ちこちの町、いやジャカルタでさえも、道路のいくつかにタマリンドの巨木が残っている
姿を今でも目にすることができる。

それほど大量にタマリンドの木がヌサンタラのあちこちの道路わきに植えられていたなら、
結実期には道路脇がタマリンドの実で埋まり、住民が掃除かたがた実を大量に持ち帰った
ことだろう。それでクンバングラを作ろうと考えた者はひとりふたりではなかったはずだ。

昔ながらの伝統的なクンバングラアスムは、タマリンドの実とザラメ砂糖を混ぜたものだ。
もっとモダンなスタイルのものは、よく練られて型成形されたものになっている。ちっぽ
けなプルメンにも歴史があった。プルメンを知ることで、われわれはプルメン自体の歴史
を知るだけでなく、ライフスタイルの変遷をも知ることができる。[ 完 ]