「留学史(13)」(2022年10月20日)

独立運動の道を歩み始めた留学生たちは、インドネシア協会Perhimpunan Indonesiaを活
動の根拠地にした。このインドネシア協会は元々、1908年にハーグで留学生相互の連
絡と扶助及び懇親を目的にして設けられたIndische Vereeniging(東インド協会)が発端
だ。設立発起人の中にラデンマス・パンジ・ソスロカルトノ、ラデンマス・ノトスロト、
ラデン・フセン・ジャヤディニンラたちの名前を見出すことができる。

東インド協会は1922年、ヘルマン・カルトウィサストロが会長の時に名称が変更され
てIndonesische Vereeniging(インドネシア協会)となった。インドネシアという名称は
オランダ人が倫理政策の中で既に使うようになっており、形容詞形のIndonesischeとイン
ドネシア人Indonesierの語はオランダ社会の一部で確立されつつあった。

従来から使われている人種差別的臭いの染みこんだIndischeとInlanderという名称を撤廃
させようとして1917年にコルネリス・ファン・フォーレンホーフェン教授がその使用
を提唱したとされている。オランダの植民地政策の基盤に置かれていた人種差別に反対す
る理想主義的な動きのひとつがそれだったと言えるだろう。

だがオランダ領東インドがオランダ民族の重要な経済基盤であることを主張する植民地主
義者がこれまで通り東インドという乳牛の乳を搾るためにその土地と人間を従来通りの立
場に置いておこうとして、時代の大きなうねりを少しでも減じるための対策を講じること
も当然のように起こった。いくら国家元首が抽象的な言葉で倫理政策という理想を物語っ
ても、その裏をかいて利のために理想を利用しようとする人間は国政中央で政務を行う者
たちの間に間違いもなく存在していた。かれらにしても、私利私欲でなく国家民族のため
というスローガンを掲げていたのだから。


留学生たちのナショナリズムは更にエスカレートして、その団体名称をオランダ語で言う
ことすらやめてしまった。1925年になって、スキマン・ウィルヨサンジョヨが会長の
ときに団体名称のインドネシア協会はオランダ語Indonesische Vereenigingからムラユ語
のPerhimpunan Indonesiaに取り換えられたのである。

祖国東インドに高まりつつあったナショナリズムはオランダの中にあるインドネシア協会
に影響をもたらし、それを敏感に感じ取っていたオランダにいる新時代のプリブミ知識層
が祖国を鼓吹し、同時にインドネシア民衆の希望をオランダの国と民衆に伝えようとする
動きも呼応して起こった。それがオランダ国内に根強く生き続けている植民地主義を刺激
した。こうして、後にインドネシア共和国初代副大統領になったモハンマッ・ハッタが会
長のとき、協会に対する抑圧事件が協会指導層の逮捕拘禁と告訴〜裁判という形で発生し
た。ハッタが会長の座にあったのは1926〜30年であり、かれは歴代会長の中で最長
の任期を務めている。

ハッタが会長になってから、民族独立を求める協会のアピールが強まった。植民地主義の
頭の上をうるさいハエが飛び回るようになったのだ。その時期、コミュニストになってモ
スクワに住んでいるセマウンがハッタに接触したのは、インドネシアの独立を共産主義が
導くことによってインドネシアを共産主義国家にすることが目的にされていた。しかしハ
ッタはその申し出を蹴った。[ 続く ]