「留学史(14)」(2022年10月21日)

東インド植民地政庁にとっては、全土の行政機構の中間から末端を司っているpembantu - 
mantri polisi - camat - wedana - patih - bupati(regent)という階層構造に就いてい
るプリブミ貴族層の官僚としての能力向上を求めるのは当然のことだった。

そのために1879年、プリブミ官吏の養成を目的にする5年制のHoofdenschoolがマグ
ランに開校し、1900年にホフデンスホールは内容が改善されてOpleiding-school 
voor Inlandse Ambtenaren略称OSVIAとなった。更に1929年にまた改良が加えら
れた結果Middelbare Opleiding School voor Inlandse Ambtenaren略称MOSVIAに変
わって、バンドン・マグラン・マディウンに学校が設けられた。

だが優秀な生徒にその上のレベルの教育を与えるためにはオランダへの留学が不可欠だ。
かれらプリブミ貴族層の子弟が学問を求めてオランダに留学することを、植民地政庁は良
しとした。中には、ラデンサレのケースのように、政庁の方が肩入れをしたケースもあっ
たことだろう。今のブパティの息子たちがヨーロッパ文化になじんで戻ってくれば、父親
が就いているブパティの地位をそのうち継承することになる。ローカルな思想と価値観に
凝り固まった父親たちよりも、ヨーロッパ文化の価値観を肌で知った息子たちの方が、行
政統治を指図するにははるかに楽なはずであり、それだけ効果も高まるにちがいあるまい。
だから留学生の中には、植民地政庁から一定額の官費を得ている者もいた。決してかれら
の全員が私費留学していたわけではなかったのだ。

ナシル・ダトゥッ・パムンチャッとアッマッ・スバルジョは年間8百フローリンを官費で
支給され、オランダでの勉学と生活のための費用として不足する分を故郷の親族から月々
150〜200フローリンほど仕送りされていた。東インド植民地軍が優秀なプリブミ兵
士をオランダの士官学校に送り込むこともあった。士官候補生の留学は丸ごとの官費だっ
たのではあるまいか。


オランダ本国の植民地省がオランダ本国側で東インドプリブミ官費留学生の受け入れを行
い、その現場での世話役として在野の東インド経験者が留学生のカウンセラーに任命され
た。ラアズマンと呼ばれるこのカウンセラーは植民地省と有給で業務契約した個人であり、
責務は官費留学生の生活指導と支援、また故郷の親と留学生の間に立って親が息子に与え
る経済的精神的な援助を確実に実現させることなどが主な役割になっていた。

だが全額私費であっても、東インドのレシデンが部下のプリブミレヘントから留学する息
子をよろしくお願いすると依頼されたら、無視できるわけがない。そのような依頼も植民
地省に入って来る。当然ながらラアズマンが後見役に就かされることになった。

異郷での勉学と生活の相談役として当初のラアズマンは留学生に対する責務を実直に果た
し、留学生との接触も父親のような誠実さで行っていたから、留学生の間にラアズマンの
悪評はほとんど立たなかった。その留学生たちの一部の者を受身の形で管理していたラア
ズマンの仕事を握ろうとしてひとりの東インド統治経験者が乗り出して来た。かれはラア
ズマンの職務範囲を超えて、アグレッシブに全留学生を自分の管理下に置こうとした。

この人物はパダンとメダンの行政長官を務めてから東インド議会の議長を経て退職し、オ
ランダに戻った大物だった。その履歴と業績評価によって植民地省でも信頼のおける東イ
ンド経験者として高く評価されていた。

このヴェステネン氏は旧弊な植民地主義に凝り固まった人間であり、留学生の間に高まり
始めたナショナリズムに大きい脅威と不安を感じ、青年たちを締め付ける意図を隠して先
任のラアズマンから仕事を取り上げたという話だ。ヴェステネンにしてみれば、オランダ
にやってきて身分不相応な自由と権利を享受し、民族独立などという夢物語を吹聴してい
るインランダー青年層に身の程を思い知らせてやる必要性を強く感じたにちがいあるまい。
だから当然のように、オランダ憲法で保証されているオランダ在留植民地人の権利を無視
して、かつてスマトラでインランダーを取り扱ったのと同じスタイルで青年たちを扱った
のである。[ 続く ]