「留学史(17)」(2022年10月26日)

20世紀のオランダ本国では法的権利がすべての人間に平等に与えられており、プリブミ
留学生たちもそれを享受することができた。それは故郷の東インドに存在しない、きわめ
て貴重な宝石のようなものだった。留学生たちがそれと故郷の状況を比較しないわけがあ
るまい。

東インドでの暮らしがオランダで行われているようなものにならなければならない。植民
地主義者が統治している今の体制にそれを期待することはできるのだろうか。少なくとも
植民地主義をヌサンタラの地から追放することが大前提になるだろう。

目標は既に見えているのだが、どの道を通ってそこに達するのかは、さまざまに意見の分
かれるところだ。そのために主張が分かれ、主張が駆動する個人個人の行動に強弱の差が
生じた。


1927年9月27日のビンタンティムール紙にアブドゥル・リファイの書いた記事が載
った。インドネシア協会で政治気のあまりない会長の不信任動議が起こり、留学生のひと
りが不信任スピーチをした。結局不信任は採択されて新会長が選任された。旧会長はその
処遇を腹に据えかね、ラアズマンに訴えた。ヴェステネンにとっては、自分の言うがまま
に動く非政治的な人間が会長をしているほうがインドネシア協会を御しやすい。ヴェステ
ネンは協会に横やりを入れて不信任を撤回させようとしたが、反抗的な若者たちは言うこ
とを聞かない。

怒りに燃えるヴェステネンは不信任スピーチをした留学生を血祭りにあげることにした。
その留学生の父親は東インドの地方行政機構の役職者だった。ある日レシデン閣下の使い
が父親を訪れて閣下からの伝言を伝えた。お前の息子はコミュニストになったから、息子
宛の送金を禁止するとレシデン閣下がおっしゃっている。閣下の命令に服従しないなら、
今の地位や将来の年金がどうなるか分かっているだろうな。

父親には信じられない話だったが、レシデン閣下の使者が来たのは夢ではない。父親は息
子の身を案じながらも送金を止めた。息子と連絡を取ろうとして手紙をラアズマン宛に送
ったが、息子からの返事は来ない。そりゃそうだ、ヴェステネンは父親から来た手紙を息
子に渡さず、反対に息子からの手紙が父親の手に届かないように東インドに向けて手を打
ったのだから。

息子は下宿代も払えず、食事にも事欠くありさまになり、悲惨な暮らしに陥った。オラン
ダを離れたほうがよいと考えたかれは、パリに住む留学生仲間を頼って移り住んだ。留学
生仲間は自分の下宿にかれを同居させたが、二人分の食費を得ているわけではない。ふた
りは飢えにさいなまれる日々を送ることになった。

アブドゥル・リファイがパリからオランダに行って留学生たちと会ったとき、その話を耳
にした。リファイはすぐにパリに戻るとその留学生を探して事情を確認し、父親宛に電報
を打って送金するように依頼した。ほどなく父親の弟からの送金が届き、その留学生はや
っと一息つくことができた。留学生をオランダに戻して東インドへの帰国の算段をつけさ
せ、リファイはパリに送金させた留学生の帰国費用を持ってオランダに行き、かれを船に
乗せた。


アブドゥル・リファイはそのできごとについての話を、それを赤裸々に物語る留学生から
の手紙と共にインドネシア協会機関紙「インドネシアムルデカ」5月号に掲載させた。そ
れを読んだヴェステネンはさながらチャベラウィッを口に入れたときのように全身を震わ
せ、真っ赤になって激怒したそうだ。[ 続く ]