「留学史(18)」(2022年10月27日)

インドネシア協会を槍玉にあげようとしてヴェステネンは法務省の高官を訪れた。東イン
ド留学生が作っているインドネシア協会はコミュニストの巣窟であり、モスクワのセマウ
ンやダルソノと連絡を取り合い、オランダに共産主義革命を起こさせ、その勢いで東イン
ドまで共産化させる戦略を練っている。セマウンから金が届いている留学生の存在が何よ
りの証拠だ。その動きの中心になっている者はどこそこの住所のだれそれ、また別の住所
のだれそれ、・・・

こうして1927年6月10日、武装した高等警察特捜部隊がハーグとレイデンでそれぞ
れの住所を急襲し、留学生たちを連行して取り調べ、室内にあった書籍や文書を大量に押
収した。逮捕された留学生の中にはジャワ人の妻を伴ってきている者もいて、生まれて1
歳前後の赤ん坊と一緒に連行されたそうだ。オランダに留学生の妻として滞在しているラ
デンアユは当時5人くらいいた。

警察側は特に書信を綿密に調べてモスクワとの関係を立証できるものを探したが、この事
件が決着するまで、そのようなものは何ひとつ見つからなかった。ヴェステネンの讒訴は
かなり長期にわたって有効だったようだ。かれの信用がそれほど大きいものであっただけ
に、結論が出たときのかれの社会的評価の落差も大きいものになったに違いあるまい。


しかしその事件がオランダの社会に偏見を招いた。東インド留学生などに会ったことも見
たこともないひとびとが新聞を読めば、かれらがどれほどオランダの国家と社会に有害で
危険な連中かということがひしひしと伝わるだろう。

1927年6月、オランダの新聞に東インド留学生の放校処分の記事が載った。ブレダの
士官学校で修業試験を間近に控えた留学生がコミュニストだったことが判明して、放校処
分に付されたという内容だ。その士官候補生は東インド植民地軍から送られてきた優秀な
人間だった。名前をスワルジョと言う。

オランダ高等警察によるインドネシア協会コミュニスト疑惑捜査の中で、ハーグやレイデ
ンの協会員を頻繁に訪れているブレダの留学生がいることが既に報告されていた。ヴェス
テネンがブレダの軍事アカデミーにそれを知らせないはずがない。

スワルジョに対する審問会が開かれ、「おまえはコミュニストか?」とかれは問われた。
それを否定すると続いて「おまえはインドネシア協会のリーダーをしているのか?」と尋
ねられた。
「オランダに来たとき、しばらくリーダーをしたことはありますが、もう何年も前に辞め
ています。わたしは軍人なので、軍人が協会のリーダーをするのはよくないと留学生仲間
に忠告されたので辞めました。」
「しかしいまだにハーグやレイデンを頻繁に訪れているではないか、なんでだ?」
「わたしの親友や遠い親戚がいるので、ときどき会いに行きます。」

最終的にスワルジョは24日間の営倉入りを命じられ、その間にかれの下宿が家宅捜索さ
れて手紙や文書が押収され、徹底的に調べ上げられた。報告書が作られて国防大臣に提出
された。

スワルジョは国防省に呼び出されて大臣からの審問を受けた。ブレダでなされた審問と同
じようなやりとりが繰り返され、そのあと大臣が尋ねた。
「ジャワ人が独立を望んでいるという件について、おまえは賛成か反対か?」
「わたしはインドネシアの独立を希望します。」
「士官たる者は主義主張を持つことが許されない。おまえを軍から追放する。」
[ 続く ]