「留学史(19)」(2022年10月28日)

パダンの大型商人が息子をロッテルダムの商業高等学校で学ばせたいため、オランダの高
等中学校へ行かせた。かれはモハンマッ・ハッタと親しい知り合いだったので、息子を見
てやってほしいとハッタに依頼し、ハッタもそれを受けた。ハッタは高等中学を探してや
り、その息子をそこへ入学させた。

父親はオランダの商事会社の得意先のひとりであり、その会社からクレジットを得てこれ
までも商売してきた。ところが商事会社のパダンのチーフに本社から連絡が来た。得意先
の息子がオランダにいて、ハッタの監督下に暮らしている。

その時期、ハッタという名前はオランダ社会でゲジゲジの仲間と見られていた。オランダ
の国家と社会に有害な危険分子、インドネシア協会という名前を持つコミュニストグルー
プの親玉なのだ。おまえの息子をハッタから引き離せとパダンのチーフは商人に迫った。
その代わりにうちの本社が面倒を見る。無視するならクレジットは取り消すぞ。

父親はそれほど自分のマイナスになることでもないと思い、クレジットを取り消されるよ
りは、と考えてチーフの申し出を承諾した。ところが息子が高等中学を卒業したとき、オ
ランダの商事会社はその息子がロッテルダムで高等教育を受けることを禁止した。そして
嫌がる息子を無理やりパダンに送り返した。「あなたの息子はあなたの商売を後継して営
んでいくのに十分な学力を既に身に着けている。」という父親宛のメッセージを添えて。

この記事内で使っている「高等」という言葉は初等中等高等という昔の教育レベルの三段
階の最高位を指している。だから高等教育は現代日本語に直すと大学教育になる。昔の話
であるために現代の大学に相当する教育機関が高等学校という固有名称で登場するので、
その点の首尾一貫に配慮して昔の概念で通すことにした。だから本論の中では高等学校や
高等教育が現代日本語の意味で使われていない点をご容赦願いたい。


1927年9月23日、ロッテルダムの商業高等学校で来年の卒業のために研鑽をつんで
いたモハンマッ・ハッタと、レイデンで法学を学んでいたアリ・サストロアミジョヨ、ア
ブドゥル・マジッ、モハンマッ・ナシルの三人を警察が逮捕した。かれらはそのとき、イ
ンドネシア協会の役員と機関紙インドネシアムルデカの制作に関わる立場にあった者たち
だ。ハッタ、アリ、マジッの三人は早朝ベッドの中にいたのを逮捕され、ナシルは自宅に
いなかったため、夕方5時ごろ逮捕された。

その逮捕計画のターゲットは8人になっていたのだが、他の四人はそのときオランダにい
なかったために難を免れたそうだ。ともあれ、ヴェステネンとその同類の植民地主義者た
ちは喝采と快哉を叫んだにちがいあるまい。

一方、オランダの新聞記者の中に、この逮捕事件に不審のまなざしを向けた者もいた。6
月10日に押収した書信類の調査結果はまったく公表されず、コミュニスト疑惑の決着が
着けられていないままずるずると日を送ったあげく起こったこの逮捕劇に関する警察のコ
ミュニケは、犯罪事件取調べのための逮捕となっていたのである。コミュニストの逮捕を
犯罪事件取調べのためと言うのだろうか?表現の雰囲気が違いすぎている。これはコミュ
ニスト疑惑が立証されなかったことを物語っているのではあるまいか。だがセンセーショ
ンを崇拝している新聞はコミュニスト逮捕という見出しを大きく紙面に掲げた。


そんな風潮の中で、故郷からの送金が届かなくなった留学生が出た。レイデンの留学生の
ひとりが金の工面に困り果てて、11月にダヴォスにいるアブドゥル・リファイに借金申
し込みの手紙を送った。部屋代30フローリンと東インドに送金依頼する電信料金15フ
ローリンを貸してほしいという内容だ。そのころ、オランダでの独身者の生活費はひと月
およそ150〜200フローリンだった。もちろん、慎ましやかな暮らし方でだ。
[ 続く ]