「甘くて苦いジャワ砂糖(1)」(2022年10月27日)

インドネシアで伝統的に作られてきた砂糖は、ヤシ類の花から採れる液体であるniraを原
料にするgula merah別名gula semutと、サトウキビの幹から採れる汁を原料にするgula 
tebuの二種類だ。現代ではビートからも砂糖が作られているが、本稿では触れない。

グラメラは茶色い粉末の塊であり、グラジャワとも呼ばれている。グラトゥブはサトウキ
ビの汁を素材にして作られた砂糖であり、砂のように加工された白い結晶はgula pasirと
呼ばれて精製と漂白の工程を経て生産される。gula batu(氷砂糖)もサトウキビの汁で
作られるグラトゥブの一種であり、昔は漂白工程を経ないものだったから茶色をしていた。
いまでは、茶色い氷砂糖はもう見られなくなり、その名の通り氷のような外見の砂糖にな
っている。


ヌサンタラのひとびとはもともと、採れたニラをそのまま飲み、あるいはサトウキビの幹
の芯をかじって出てくる液体を飲んでいた。どちらもが飲み物だったと言えるだろう。そ
れが粉状あるいは粒状の固体にされるようになったのは、人類が持った技術という能力の
賜物だったように思われる。

紀元前1千年ごろにはインドで甘い液体の固体化が行われるようになり、紀元前5世紀ご
ろにペルシャがインドに進攻したときその技術を手に入れ、それが更に西方に伝わった。
イギリスで砂糖が知られるようになったのは1099年だったそうだ。一方、東方にも伝
わって、華人がインドの技術に倣って製糖を始めたのは西暦紀元600年ごろからだった
とされている。


歴史の中のサトウキビの始まりはニューギニア島だった。ニューギニア人は紀元前8千年
ごろ、サトウキビを植えてそれを生でかじりながら右往左往していたそうだ。それから2
千年くらい経って、サトウキビ栽培がアジアの広範な地域に広がった。そんな中で、どう
やらインド人が最初にサトウキビ汁から結晶を取り出したらしい。紀元前4世紀ごろにな
るとインド人は料理の中に砂糖を使うようになり、他の飲食品にも砂糖を混ぜて使うなど、
ライフスタイルに画期的な変化が起こった。

インドへの軍事侵攻で砂糖文化を戦利品に持ち帰ったペルシャも砂糖生産に手を染めるよ
うになり、ペルシャ帝国の版図になった地中海東岸部にまで砂糖文化が拡散した。その後
アラブに起こったイスラム勢力が支配を広げたとき、アラブ人も砂糖文化を取り込んだが、
かれらはそれに磨きをかけた。アラブの砂糖が高純度でもっとも白いという定評がその成
果だ。マジパンはアラブ文化が生んだもののようだ。

ヨーロッパ人が砂糖を自家薬籠中のものにしたきっかけは、十字軍がエルサレムを陥落さ
せて持ち帰った略奪品だったらしい。砂糖文化に関するかぎり、戦争が文化を運ぶものだ
ったと言えそうだ。地上最高の甘きものの陰にはどうやらあまり甘くないものがへばりつ
いているように思われる。

1390年ごろにポルトガル人がマデイラでサトウキビ汁を搾るための農園栽培を開始し
たのが、砂糖製造のためのサトウキビ農園の最初だと言われている。その事業はおよそ百
年後にブラジルに拡大された。1480年から1540年ごろまでの間、ポルトガル人は
サトウキビをブラジルに持ち込んでせっせと砂糖の生産に励んだそうで、ブラジルに定着
した製糖産業は1710〜1770年の間、ブラジルからヨーロッパへの輸出総額の中の
20%を砂糖で満たすまでに成長した。砂糖は太古から現代にいたるまで、世界にもっと
も古くからあった有力な交易品であり輸出商品だったのである。[ 続く ]