「甘くて苦いジャワ砂糖(2)」(2022年10月28日)

そんな歴史を見る限り、ヌサンタラでも先史時代からニラとサトウキビ汁は併存していた
ように思われる。インドネシア語の種々の記事論説を読むと、VOCがやってくる前の話
の中にサトウキビはほとんど登場しないのだが、ムラユ人が先史時代からニューギニア島
を訪れて交易していたという事実があり、サトウキビがヌサンタラの西部地方にもたらさ
れなかったはずはあるまい。

ラフルズのジャワ史によれば、ジャワ島でサトウキビは自生しており、ジャワ人は適宜そ
れをちぎって?みながら右往左往していたようなことが書かれている。中部ジャワでは特
にジュパラ周辺が野生サトウキビの豊富な地域だったそうだ。

プリブミはサトウキビの汁を加工することをせず、直接かじって汁を吸っていたが、ヌサ
ンタラにやってきた華人は古くから加工を行っていて、シリンダー状にした石を回転させ
てサトウキビの幹を搾り、加熱して結晶を作っていた。石を回転させる動力は牛や水牛だ
った。


古文書が物語っているインドネシア最古の製糖工場はジャワ島西部のバンテンにあった。
バンテンラマ博物館の所蔵品である石のシリンダーとバンテンの町の地図によって、15
95年にクリスタル状のグラトゥブを作る工場がバンテンにあったことが明らかにされて
いる。

バンテンの王都にあったのだから、バンテンスルタンのお声がかかっていたにちがいある
まい。それは華人の産業技術をプリブミが使い始めたことを示しているように思われる。
いや、華人と限定するのはよくないかもしれない。グラトゥブ作りを行っている民族の人
間があちこちからバンテンに来ていたのだから。ただしその工場の存在をもって、プリブ
ミがその技術を初めて知ったということになるのかどうか?

西暦紀元後の数百年間にインド人のヌサンタラ移住がスマトラからジャワにかけての一帯
で起こった。文書記録に見当たらず伝承された現象も見当たらないからそれは存在しなか
ったのだ、という結論はどうも近視眼的短絡的な思考結果であるようにわたしには思えて
仕方がない。


VOCがジャヤカルタを陥落させて1619年にバタヴィアの町を築いたあと、バタヴィ
ア城市の外側にさまざまな農園や水田あるいは牧場などが開かれて食用材料の生産が行わ
れた。その中にサトウキビ農園(畑を大きくしたくらいの規模かもしれない)があり、砂
糖の製造小屋も設けられていた。つまり専用の工房で生産が行われていたのであり、規模
感を無視してそれを工場と述んでも間違いにはならないだろう。

初期のバタヴィアではコロニー生活の中堅を占める自由人職人や技術者の層が華人とVO
C退職ヨーロッパ人を主体にしていた。肉体労働はプリブミ奴隷の役割だった。そんな状
況の中での砂糖製造技術は華人が腕を振るっていたようにも推測されるが、はっきりした
ことは分からない。

VOCがバタヴィアを統治したほぼ2百年間に、バタヴィアの南方に作られた製糖工場は
百近い数にのぼったそうだ。もちろん19世紀末ジャワ島に続々と開かれた大規模農園と
大型工場のセットとはくらべものにならないくらい小さい工房だったことだろう。ともあ
れVOCも交易商品として砂糖を作っていたのである。[ 続く ]