「甘くて苦いジャワ砂糖(3)」(2022年10月31日)

1830年のファン・デン・ボシュ第44代総督着任以来始まった強制栽培制度によって、
ジャワ島各地で農民に藍・コーヒー・サトウキビ・ゴム・茶など商品作物の栽培が義務付
けられた。農民が作った作物は政庁が定めた基準価格で仲買人が買い上げた。

仲買人が農民から買い上げたサトウキビは製糖工場に送られて砂糖に加工された。製糖工
場はたいていが官立だったが民間資本のものもあった。1835年には新規にBuduran, 
Waru, Karang Bongに工場が開かれ、それから三年後にはまたCandi, Watutulis, Balong 
Bendo, Gedekなどに製糖工場が建てられている。1860年代にはその当時の最新技術で
ある真空缶を備えた工場がジャワ島に55あった。世界の砂糖王国キューバには真空缶を
持つ工場が77あって、2位のジャワ島に差をつけていた。

この栽培制度は最初こそたいへんな成果が上がったが、数十年の間に頭打ちとなり、停滞
から沈滞へと向かった。現場でさまざまな腐敗行為と強制搾取が行われ、その一方で農民
が昔から行っていた食糧自給のための生産がこの制度によって障害をこうむったことから、
飢饉と飢餓が発生して大きな社会問題を生み、インドネシア史の中で怨嗟の一ページを飾
るものになったのは周知のとおりだ。

提案者のファン・デン・ボシュをはじめとして、オランダの議会も政府もその制度を単な
る栽培制度としか呼ばなかったのに、インドネシア人歴史家がそこに強制の文字を付け加
えて怨嗟の声を象徴させたから、インドネシアでの公式名称はsistem tanam paksaになっ
た。日本人がインドネシア語を直訳して日本の社会に流通させた結果、日本の民衆はその
制度を強制の権化と感じるようになり、邪悪のイメージが付きまとうようになる。まるで
オランダ人が国家国民を挙げて植民地東インドを虐げようとしたような短絡的印象を抱く
者が増えそうだ。一歴史家の知恵が一民族の頭脳に陰影を彫り込んだ一例がこれだろう。


この栽培制度がインドネシアに鉄道網をもたらす発端になった。インドネシアで初の鉄路
は中部ジャワ州スマランとグロボガン県タングン間25キロを結んで敷かれ、1867年
8月10日に汽笛一声が鳴り響いた。

鉄道建設工事が開始されたのは1864年6月17日。スマラン市内にスマランNISが
ターミナル駅として建てられた後、市内トゥロゴムリヨにアラストゥア駅、次いでドゥマ
ッ県クンバンアルムにブルンブン駅、そして終点のタングン駅がグロボガン県タングンハ
ルジョ村に建設された。

オランダ東インド鉄道会社Nederlandsch-Indische Spoorweg Maatschappij (NIS)と名付
けられた民間会社が鉄道運行事業を請け負った。NISはオランダ人農園事業者ふたりが
組んで起こしたものであり、最初、鉄道敷設のアイデアがかれらから植民地政庁に出され
たという話になっている。


鉄道は人間と貨物を運んだ。運賃は一等客車ひとり3フルデン、2等1.5フルデン、3
等0.45フルデンで、生きた家畜や農産物、荷車から馬車まで積み込まれたそうだ。列
車運行は一日一往復で、スマラン発午前7時、タングン着午前8時。戻り便はタングン発
16時、スマラン着17時だった。

この路線は更に南のソロに向かって伸ばされ、1873年にはソロを経てヨグヤカルタま
でつながってスマランとジャワの王家領との往来が容易さを増した。同じ年にバタヴィア
〜バイテンゾルフ間の鉄道が開通している。

スマラン=ソロ・ジョグジャ線はクドゥンジャティで分岐し、植民地軍本部のあるアンバ
ラワのヴィレム1世要塞までつなげられた。この線路の伸び方を見るなら、スマランから
どうして南東方向のグロボガンに向けて線路が敷かれたのかという疑問が生じないだろう
か?[ 続く ]