「甘くて苦いジャワ砂糖(5)」(2022年11月02日)

農園事業に最適な場所として西洋人資本家たちがジャワ島を選んだのは、インフラが最も
充実し、文化レベルが高く、肥沃な土壌と豊富な労働力があったためだ。他の島にいくら
肥沃な土壌があっても、製品を港に運ぶための道路も鉄道も未整備であれば、二の足を踏
むに決まっている。スマトラ島デリ地方で興ったタバコ農園も、労働力調達の面でたいへ
んな苦労を強いられた。


だれもが砂糖事業を起こせるようになると、華人やプリブミエリートもそこに参入した。
中部ジャワの四王家の王たちの中から砂糖事業を行うひとびとも出た。スラカルタとヨグ
ヤカルタ周辺に残っているサトウキビ農園と製糖工場の中に王家の所有になっているもの
があったのだ。もちろん領地の一部を貸して借地料収入を得ることもした。その方が濡れ
手で粟になるに決まっている。

加えて領民の雇用拡大と農民の収入増、輸送やその他関連サービス産業の活発化などのた
めにジャワの王国領は空前の好景気に沸いた。ヨグヤカルタとスラカルタはその時期、長
足のモダン化を実践することができた。砂糖のゴールドラッシュという甘き香りの中でそ
のモダン化が進展したのである。

1890年代後半にジャワ砂糖の輸出が米国向けに突出した。米国とスペインの間で戦争
が起こり、キューバの砂糖が米国に入らなくなったためにその需要がジャワに回ってきた
のだ。20世紀に入ってからは、中国・日本・香港そしてインドがジャワ砂糖輸出先の上
位を占めた。1926年には210万トンの輸出が達成されて100万フルデンの売り上
げになった。それはその年のジャワ島からの輸出総額の7割を占めていた。しかしそれら
の輸出先諸国が大恐慌のあおりで輸入削減に努めたことから、ジャワ砂糖の輸出も低下を
余儀なくされたのである。


2002年9月16日午後のPabrik Gula Tasikmaduは閑散としていた。およそ10ヘク
タールの敷地に立てられている製糖工場の広い前庭は葉の生い茂った百年を超える巨木に
囲まれて平和な雰囲気を醸し出している。ほぼ2百メートルという横に長い工場建屋の中
から機械の立てる轟音が低く聞こえてくる。古くくすんだこの製糖工場が依然として健在
であることをそれが示している。ベチャが2台、50キロの砂糖が詰まった大きい袋をそ
れぞれ8個積んで中から出てきたかと思うと、街道に向かって走り去った。

中部ジャワ州カランアニャル県にあるタシッマドゥ製糖工場はソロの町からおよそ15キ
ロ東に離れた場所にある。スラカルタ王家から分離して領地を持ったアデイパティマンク
ヌゴロ家のマンクヌゴロ4世が、農園事業に参入してふたつ目に建設したものだ。最初の
PG Colomaduは1860年、そしてこのタシッマドゥが1871年6月11日の開設にな
る。チョロマドゥは1997年に閉鎖された。

マンクヌゴロ4世は単に金を出して資本家になるだけという人物ではなかった。自分の領
地内に起こした新たな産業の便をはかると同時に民生にも恩恵を与えようとして、チョロ
マドゥ工場のサトウキビ農園のためにチュンクリッ水路、タシッマドゥ工場の農園にドゥ
リガン水路を造成させ、水路周辺に森林を設けた。更に水路から分水させて周辺地域に水
を引き、水田灌漑に使えるようにした。加えてサトウキビ農園と製糖工場の間に鉄路を敷
き、軽便蒸気機関車がサトウキビを満載したロリーを工場内に運び込めるように、インフ
ラ作りにも骨を折った。鉄路を開くための道づくりが、それまで道らしい道のなかった部
落にまで道路網の恩恵を与えることになった。[ 続く ]