「留学史(23)」(2022年11月03日)

判決公判予定日である3月22日がやってきた。ハーグ地方裁判所の傍聴席はひとで埋ま
り、東インドプリブミの顔が多数を占めているのが分かる。オランダ国会の社会党代表者
の顔も見えた。判事団が入廷して裁判長が判決文を読み上げる。四人の被告は弁護人と共
に立ち上がって神妙に判決を聞いた。

検察が起訴した罪状は証拠品の中に認められなかったと裁判長は述べた。問題に取り上げ
られたいくつかの記事に記された武装蜂起や武力叛乱などの言葉は、論旨全体を読むかぎ
りその実行を誘い使嗾しているようには理解し得ない。中にはそれが失敗した後のことを
分析しているものもあって、その言葉があるから即扇動であり使嗾であると見なすのが不
可能なものすらある。

そもそもインドネシアムルデカに書かれている内容はインドネシアの独立のための方策と
して思索された種々の考えであり、オランダ王国で武装叛乱を起こして現体制を覆すこと
はまったくその視野に入っていない。オランダ王国刑法典第131条の条文はオランダ王
国に対する叛乱についての刑事罰であって、この起訴はその内容から外れている。それら
の理由から被告四人には無罪の判決を与える。四人は求刑されているすべてのことがらか
ら解放される。

この判決を聞いた傍聴席は歓喜に湧きたった。それはハーグの街中に伝わり、さらにオラ
ンダ全土に波及し、そうして東インドにまで流れ込んだ。オランダで、東インドで、まる
で戦争勝利の祝賀会のような催しがあちこちで開かれ、四人の留学生は一躍ヒーローにな
った。


1927年9月にハッタの逮捕が行われるしばらく前のころ、留学生の中にヨーロッパに
墓を築いた者があった。デルフトで学んでいたスマディは病気が長引き、衰えが目立つよ
うになってきた。病状が悪すぎて帰国させることもできない。スヘヴェニンヘンの病院で
治療を受けたが好転のきざしは一向になく、医師も匙を投げたようでスイスに転地療養し
てはどうかと勧めた。その時期、スイスに留学生仲間はおらず、オランダから誰かが行か
なければかれの手助けも様子の観察もできない。インドネシア協会はできるかぎりのこと
をしてやりたかったが、遠いスイスに高い交通費をかけて簡単に行けるものでもなく、ま
た学業から長期にわたって離れることのできる者もいなかったために、スマディは自分の
友人に頼んでひと月間ほどスイスでの世話をしてもらった。

ある日、スマディの介添えをしていた友人がインドネシア協会を訪れ、スマディの命は時
間の問題になっていると告げた。会長のハッタはそれを捨てておけず、試験が済んで時間
の余裕ができたスティッノを伴ってスイスに向かった。ふたりがスイスに着いてから二日
後にスマディは息を引き取った。

ハッタとスティッノはイスラム式の埋葬をしてスイスの地に墓標を建てた。それが終わる
とスティッノはオランダに戻り、ハッタは雑事を片付けるためにスイスに残った。先に帰
ったスティッノはオランダ国境で逮捕され、ハーグに連行されて取り調べを受けたが、拘
留できる容疑が見つからないために釈放された。下宿に戻ってかれは驚いた。スイスに行
っている間に自分の部屋が家宅捜索されて、文書類からタイプライターまでが押収されて
いたのだ。同じことはハッタの留守宅でも行われたそうだ。ハッタが逃亡したのではない
かと警察が勘繰ったことを思わせるようなできごとだ。[ 続く ]