「留学史(24)」(2022年11月04日)

1910年代にもスイスで没した留学生がいたそうだ。アブドゥル・リファイがアベンダ
ノン氏から聞いたとして物語ったこんな話がある。東インド留学生のひとりがスイスで下
宿生活をしていた。それはサナトリウム暮らしのようなものだった。つまりサナトリウム
に入らないで下宿に住んでいたということだろう。そしてある日、彼はただひとり、自分
の部屋で孤独死を迎えた。その遺体がそのまま放置されているという話を人伝えに聞いた
アベンダノンは自費でスイスに向かい、孤独な青年の埋葬をしてやった。遺体は四日間、
ベッドの上に放置されていた。その青年は東インドのさる王家の王子だったという話だ。

王家の王子がオランダに留学する際には地元のオランダ人をその後見人に立て、父王の依
頼に従って後見人がオランダでの面倒を見るのが普通のやり方になっていた。そのオラン
ダ人とプリブミ王の間に何があったのかは知る由もないし、アベンダノンもそこまで立ち
入る気は毛頭なかったようだが、父王は息子の死の通知が後見人でない人間から届いたこ
とに何を感じただろうか。


言うまでもなくその時代、男子留学生がもっぱらヨーロッパの大学で教育を受けていたの
だが、女子留学生がいなかったわけでもない。1929年にはMaria Ulfah Santosoがレ
イデン大学に通い始めた。かの女は自分の公式名称をMr. Hajjah Raden Ayu Maria Ulfah
としているように、ラデンアユの称号を持つ貴族階層の出自だ。頭にMr.が付いているの
はかの女が男性だったのでなく、法学の高等教育を終えた称号であるオランダ語のメステ
ルが付けられているのだ。ハッジャはメッカ巡礼を行ったムスリマが名乗る称号であり、
ハジの女性形だ。

マリア・ウルファ・サントソは1911年にラデン・モハンマッ・アッマッの娘として、
バンテン州セランで生まれた。この父親は20世紀初期にHBSで教育を受け、卒業して
から西ジャワ州クニガンの県令にまで登った進歩派であり、妻の没後、1929年にオラ
ンダに娘ふたりを連れて移り住んだ。こうしてマリア・ウルファはレイデン大学で法学を
学ぶようになり、1933年に東インドプリブミ女性として最初のメステルの称号を得た
のである。


マリア・ウルファは最初、後進的な東インド社会にこびりついている女性差別を解消する
ために法的な分野から切り込んでいくことを自分の将来の夢にしていた。ところがレイデ
ンでインドネシア協会に出入りするうちに、政治体制の問題に意識が広がって行った。ア
ムステルダム大学で法学を学んでいたスタン・シャッリルと知り合い、社会主義にのめり
こんでいたシャッリルの影響を受けて、社会改革の理想を描くようになる。

インドネシア共和国独立宣言のあと、内閣が設けられた。初代内閣は大統領が直々に率い
たが、その後スタン・シャッリルにバトンタッチされて、シャッリルは三回内閣を編成し
た。その第二次内閣のときにマリア・ウルファは社会相に抜擢された。

東インドに戻ってきて旧態復帰を武力で実現させようとするオランダ植民地文民政府とイ
ンドネシア共和国の間で1946年11月に交渉が行われた。後にリンガルジャティ協定
と呼ばれるようになるその交渉をどこで行うのかについて、双方の主張が真っ向から対立
した。オランダ側はジャカルタで、インドネシア側はジョグジャで、とそれぞれ自分の本
拠地を主張したのだから、交渉がまとまるはずがない。内閣首班のシャッリルも困ってし
まった。そこにマリア・ウルファがアイデアを出した。自分が育った土地である西ジャワ
州クニガン県のリンガルジャティで行えばいい。

その地方には自分の人脈がある。双方の安全を保証するために自分が動くから、それでオ
ランダ側を説得してはどうか。リンガルジャティ協定が成立した陰に、マリア・ウルファ
の果たした大きい貢献があったという話になっている。[ 続く ]