「留学史(25)」(2022年11月07日)

女子海外留学生として有名な人物のひとりがSiti Latifah Herawatiだ。父親の名Latipを
付けたHerawati Latipあるいは夫の名Diahを付けたHerawati Diahという名前でも知られ
ている。オランダ植民地時代にオランダでなく日本に留学した最初の女子留学生がこのシ
ティ・ラティファ・ヘラワティだった。ヘラワティは1917年にブリトゥン島のタンジ
ュンパンダンで生まれた。そのとき父親のラデン・ラティプはブリトゥンマツハペイの企
業医師をしていた。

バタヴィアのサレンバにあるELSを終えたヘラワティはコニングスプレインのリセウム
に進学した。5年制のリセウムでかの女はラテン語とギリシャ語を学んだものの、4年生
までとんとん拍子に進級したあと、5年生に上がれなかった。プリブミをあまり利口にし
ないほうがよいという植民地主義思想のためだったようだ。

若いころ十分な公的教育を受けさせてもらえなかったためにかの女の母親は子供たちの教
育に熱意を持ち、ヘラワティと妹のサプタリタを日本に留学させることにした。オランダ
に留学しても差別的な扱いを受けるかもしれない。日本や米国であれば、教育の場で差別
を受けることはないだろう。

1935年、母とふたりの娘は日本へのハネムーン旅行に行く母の弟夫婦と5人で日本に
向かう船に乗った。東京でヘラワティは目黒のアメリカンハイスクールに通った。サプタ
リタは文化学院で絵画を学んだ。姉妹は田園調布のドクトルヨネヤマの家庭に寄宿して日
本人の生活習慣を体験した。ヘラワティは日本滞在中に柔道場に通ったことがあるそうだ。
日本人は歩くのがとても速くて、インドネシア人ののんびりした挙措に慣れている姉妹は
忙しい日本人の暮らしに驚いたとその印象を語っている。

ヘラワティの日本暮らしは二年間で終わった。かの女がリセウムでの学習経験を持ってい
ることから、ハイスクールはかの女を二年間で卒業させたのである。するとかの女の母は
米国の大学へ行くように勧めた。

1937年にヘラワティはニューヨーク市のコロンビア大学バーナードカレッジに入学し、
社会学を専攻し、ジャーナリズムを副専攻した。卒業したのは1941年で、そのまま帰
国の途に就いた。もう一年遅れていれば、故国へ帰れなくなっていたところだ。


1941年12月8日に日本が米英に宣戦布告すると、オランダ亡命政府も日本に宣戦布
告した。蘭領東インドは日本と戦争状態に入ったのである。すると日本と関係を持ったプ
リブミが逮捕されて抑留所に入れられた。ヘラワティとサプタリタ及び母親はスカブミの
チバダッに設けられた抑留所で囚われの身となり、日本に行ったこともない父親のドクト
ルラティプまでもがガルッの抑留所に収容された。チバダッの抑留所には他のプリブミ女
性やドイツ人女性が囚われていた。

1942年3月の日本軍ジャワ島占領で抑留所の囚人たちは全員解放された。ヘラワティ
の一家は中央ジャカルタのクラマッ通りの自宅に戻ることができた。居所はその後、プラ
パタン通りに移った。

日本軍政下のジャカルタでヘラワティはラヂオホーソーキョクのアナウンサーになった。
そのころ、ホーソーキョクで番組制作を担当していたB.M. Diahと知り合い、ふたりはそ
の年のうちに結婚した。

BMディアは新聞「アジアラヤ」の記者をしており、インドネシア共和国独立宣言前夜に
在ジャカルタ海軍武官府で行われた独立宣言文起草の場に登場している。BMディアは1
945年10月1日に日刊紙ムルデカを立ち上げた。ヘラワティも夫を助けて新聞の運営
に協力することになる。

この夫婦は1955年、バンドンで開かれるアジアアフリカ会議の開催に時を合わせてイ
ンドネシア初の英語新聞インドネシアンオブザーバーを発行した。この新聞は2001年
に廃刊になり、一方日刊紙ムルデカも1999年に人手に渡った。ジャーナリズムとは別
に、プラパタン通りにあるホテルアルヤドゥタもかの女が手掛けた事業だ。

夫は情報大臣を務めたことがあるため、没後南ジャカルタのカリバタ英雄墓地に埋葬され
た。妻のヘラワティも99歳の長寿を全うした後、夫の墓所の隣に永遠の住処を構えるこ
とになった。[ 続く ]