「留学史(26)」(2022年11月08日)

19世紀半ばごろの日本はヨーロッパ人にとって野蛮国だった。ヨーロッパ人が中国の領
土を奪って治外法権を敷いているありさまを日本人は見ていた。そこは中国の領土内だと
いうのに、あらゆることがヨーロッパ人の支配下に行われていたのだ。

日本で天皇が政権を握ると、何百人もの青年を米国・イギリス・フランス・ドイツなどに
留学させた。高等教育の学校も作った。最初は西洋人の教授を雇って国民を教育させた。
数十年後、教授陣はすべて日本人に代わっていた。

三十年四十年かけて日本の軍隊と艦隊はヨーロッパと互角の戦争ができるまでになった。
広大な四億の民を持つ清国、鷲とあだ名されたロシア帝国との戦争で、日本は勝利した。
日本の知識層には学識優れた著名人があふれている。第二次世界大戦前、世界の目は日本
を、イギリス・米国・フランスに並ぶ国と見なした。そのころ、イギリス人は日本をビッ
グファイブのひとつだと語っている。アブドゥル・リファイは新聞にそう書いた。


世界中が侵略的だったその時代、他国からの侵略を受けないためには強国にならなければ
ならなかった。いくら国を鎖していても、やる気満々の提督が戦闘艦隊を引き連れてやっ
てくれば、一戦交えるかそれとも頭を下げるかしかないだろう。勝てる可能性がゼロであ
れば一戦交えるのはバリ島のププタンのようなもので、単なる誇りの問題でしかなくなる。

一戦交えて勝たなければ、生き残った者が奴隷にされるだけだ。己の誇りを全うするため
に自分が世を去るのは勝手だが、まだ生きていたい者たちを奴隷にして自分だけ逃げ出す
者に真の誇りが得られるだろうか。勝つためには強国にならなければならないのだ。

強国として認められていたなら、やる気満々の提督も最初から砲門を開いて砲口を向けた
ままやって来ることはあるまい。真の強者は万策尽きてからやっと喧嘩の腰を上げるのが
世の常だったのではあるまいか。


強国として認められるためにはまず軍事力だろうが、ただ大軍を擁しているだけで戦争の
成り行きが推測できたのは遠い昔のことだ。もう何百年も前からそんな常識は覆されてい
る。大国は普通大軍を抱えているものの、近世以降の戦争は格闘戦の人数が勝利を決める
ものでなくなった。近代的軍備と戦略・戦術・作戦によって戦争の勝敗が決まる方向に変
化していったのである。大国が張子の虎になって行く道がそこに敷かれていたということ
だろう。

格闘戦の人数が戦争の勝敗を決めるものでなくなったのは、幕末の長州征伐で村田蔵六が
示して見せたことではなかったろうか。いやもっと何百年も前に甲州武田の騎馬軍団が潰
滅させられている。

村田蔵六が作った長州軍は、格闘戦を飯のタネにして闘技を身に着けた戦闘員階層を敵に
回しながら、そうでないズブの素人たちが徹底的に格闘戦を避けることで戦争を勝利に導
いたのだ。歴史に興味を持つ日本人ならたいていだれでも知っているはずのことではない
のだろうか。

ところが太平洋戦争の後半、マッカーサーの軍隊が日本に向かって反攻の途に入ってから、
武器兵器の改良と量産で差がついてしまった劣勢の日本軍はしばしば夜戦と吶喊攻撃とい
う格闘戦肉弾戦を敵に挑み、最初のうちは戦果が挙がったものの、そのうちに村田蔵六戦
法を体得した米軍を前にして、足元にも寄り付けなくなってしまった。

遠距離から精度のよい長距離砲を使い、また高高度から巨大航空機で爆弾を落とし、徹底
的に格闘戦を避けて勝利を不動のものにした。終戦交渉の余力を残らず打ち砕かれた大日
本帝国は無条件降伏する以外になすすべがなかった。そこまで徹底した方針で日本を叩き
のめしたマッカーサーの姿勢の中に、「アイシャルリターン、マニラ」の屈辱から発した
憎しみを感じるのは行き過ぎだろうか?対日戦略の主導をマッカーサーが握っていたのか、
あるいはワシントンだったのか、浅学のわたしにはよく分からないものの、人間の精神に
分け入って見るなら、マッカーサーが心奥の最深部で日本人を憎んだ可能性は小さくない
ように思われる。余談から戻ろう。[ 続く ]