「甘くて苦いジャワ砂糖(8)」(2022年11月07日) チェンベガンという言葉は中国の春の祭日「清明節」に由来している。清明の福建語読み はceng bengだった。ジャワの製糖工場で中国文化の祝祭儀式が行われてきたのは、植民 地時代にサトウキビ農園の労働者の多くが華人移住者だったことに関係しているという説 明があり、かれらが毎回製糖作業期開始前に自分たちだけで無事故と優れた仕事の成果を 願って祖霊に祈祷したことが伝統になったと述べられている。それに従うと、労働者たち が行っていた私的な祈祷儀式を工場管理者が採り上げて工場全体のために行わせるように なった経緯が感じられる。 その一方で、ジャワ島北岸部に移住してきた華人たちの中に砂糖製造技術を持ってきた者 たちがいて、サトウキビ農園時代が始まるずっと以前からかれらはジャワで砂糖作りを行 っていたという話もある。華人は大仕事を行う前に先祖の墓に詣でて成功を祈願する習慣 を持っていて、小規模であってもサトウキビが育ってこれから砂糖作りを始めようという とき、製糖作業にかかわる者たちが毎回同じような儀式を行っていた。 ジャワ島で農園時代が開花してから、砂糖製造工場が最初はオランダの官営で開始された あと、産業の民間開放が行われてヨーロッパの民間資本による工場開設が増加したとき、 管理者の手足として工場運営に使われた華人たちが砂糖製造にかかわる儀式の必要性をヨ ーロッパ人管理者に理解させたというできごとがあったかもしれない。 そのいずれが当たっているにせよ、ジャワ島での製糖作業開始時期は中華節季のひとつで ある清明節の時期と異なっているのだ。趣旨も時期も異なるというのに、どうして同じ言 葉が使われるようになったのだろうか。 PG Djatirotoは東ジャワ州ルマジャン県ジャティロト郡カリボトロル村にある。アムステ ルダム通商連合という団体が1884年に東ジャワに製糖工場を設けることを決定し、現 地調査を行って場所を決めた。スラバヤ〜プロボリンゴ〜ルマジャン〜ジュンブル〜バニ ュワギを繋ぐ街道沿いであり、おまけにそれらの町を結ぶ鉄道線路も走っている。多分そ の地の利が大きい決定要因として働いたのだろう。加えて土壌と気候、そして地勢などの あらゆる点が考慮された果てに、ジャティロトに白羽の矢が立てられたようだ。 平均気温25〜27℃、平均湿度70〜83%、日照時間40〜80%、年間降水量1, 860mm。そこにあった森林の開墾が1901年に着手された。工場建設予定地区の伐 採と整地が終了したのは1905年で、すぐさま工場が建てられた。工場稼働開始は19 10年となっている。最初その工場はRanupakisという名称だったが、1912年にジャ ティロトに改名された。 サトウキビ農園のために水路建設が行われてボンドユド水路ができあがった。アルゴプロ 山系から湧出するきれいで豊富な水が二次三次水路網に流れ込んで、サトウキビの生育を 確実なものにした。そのジャティロト製糖工場とサトウキビ農園の建設に際して、地元に 住んでいたランチン爺とワテス爺のふたりの長老が大いに協力して貢献した。ジャティロ ト製糖工場でチェンベガンが行われるとき、このふたりの墓地とボンドユド水路の水源で あるブロンヘボウは毎回参詣の対象になっている。 たいていの製糖工場が行ったように、ジャティロトでも広大なサトウキビ農園から効率よ くサトウキビを運ぶためにロリーけん引のための鉄道が敷設された。今ジャティロトで活 動しているのはジーゼル機関車ばかりだが、最初は他の古い製糖工場と同じように蒸気機 関車が使われた。1908年製の初代グループ蒸気機関車の一台はDJ10と大書されて ジャティロト製糖工場地所入口のガプラの近くに記念碑として置かれている。老朽化した 蒸気機関車は徐々にジーゼル車に入れ替えられ、最後の蒸気ロコは1980年ごろまで走 っていたという話だ。 この工場をかつて植民地時代にヴィルヘルミナ女王が訪れたことがあるそうだ。毎年オラ ンダの国益に多大な貢献を果たしているジャワの砂糖にそうやって権威を添えたのかもし れない。[ 続く ]