「甘くて苦いジャワ砂糖(9)」(2022年11月08日)

いまジャティロト製糖工場が持っているサトウキビ農園用地は6千Haだ。そのうちの4千
5百Haは水田にも使われている。サトウキビが潤沢に確保されているのがジャティロトの
強みだろう。製糖工程に投入されるサトウキビの栽培面積は最低40%が自社のコントロ
ール下になければならない。それを下回ると材料不足のリスクに直面する。

閉鎖されたジャワの製糖工場の多くは、そのリスクが工場稼働の健全性を失わせた結果だ
った、と国有第11ヌサンタラ農園会社の管理部長は語った。たくさんの人間を働かせて
いるために、生産アウトプットとのバランスが取れなくなれば事業は立ち行かない。

収穫されたサトウキビは36時間以内に破砕して絞らなければならない。それが早ければ
早いほど良いのは言うまでもない。刈られたサトウキビが長時間放置されれば、幹の含有
水分が低下していく。それがレンデメンを引き下げる一要因になる。

農民が収穫したサトウキビはすぐに届けられればよいのだが、その管理が工場側でできる
ものではない。おまけにトラック運送者は荷がいっぱいになるまで動こうとしない。へた
をすると刈り取ってから工場に届くまで2〜3日かかることも起こる。


いま、ジャティロト製糖工場は国有第11ヌサンタラ農園会社が経営する17製糖工場の
ひとつであり、その中のナンバーワン工場だ。ジャワ島にある製糖工場は57あって、そ
のうちの33が東ジャワ州にある。東ジャワの砂糖生産量は全国生産の半分を占めている。
ジャティロト工場の生産能力は投入サトウキビ一日7千トンで、作業期には3千人が工場
の稼働に携わっている。

ジャティロトは作業期が5月から10月までの6ヵ月間になっていて、最初と最後の月に
得られるサトウキビは未成熟と過成熟が多くて非効率だから4ヵ月に短縮した方がよいと
いう声も上がっているそうだ。


ヨグヤカルタ特別州バントゥル県カシハン郡ティルトニルモロ村パドカン部落にはマドゥ
キスモ製糖工場PG Madukismoがある。そこはヨグヤカルタ王宮から南西方向におよそ3キ
ロほど離れた場所だ。

現在、この工場は砂糖の他にアルコールも生産しており、ジャワ島のたいていの砂糖工場
の例にもれず、サトウキビの収穫期には昔ながらの小型蒸気機関車がサトウキビを満載し
たロリーを引いて工場にやってくる姿を目にすることができる。

この工場は元々PG Padokanという名称だった。インドネシアの独立完全承認がなされる以
前のあらゆる資料にはパドカン製糖工場の名前が登場し、マドゥキスモの名前はどこにも
出て来ない。

パドカン製糖工場の由来を調べてみたが、判然としなかった。写真資料の中に1868ー
1939といった撮影時期の表示が見られることから、工場は1868年より前に存在し
ていなかったという解釈ができるために、1868年が工場完成年ではないかという気が
する。マンクヌゴロ家が製糖産業に参入したころと同時期だ。ということは、マンクヌゴ
ロ家に倣ってヨグヤカルタ王家が製糖事業を行った可能性も感じられるのである。ひょっ
としたら工場設立者はジョグジャ王家だったのかもしれない。その後もジョグジャスルタ
ン国領内に製糖工場が続々と作られて、ジャワ島の砂糖黄金期にはヨグヤカルタ領内で1
9の製糖工場が稼働していた。

このパドカン製糖工場は日本軍政期に、サトウキビを工場内に運び込むロリー用の鉄路を
メインにして、工場建物や機械類から解体された鉄材がタイに送られ、戦場にかけられた
橋(クワイ河鉄橋)の建設に使われた。クワイ河鉄橋は完成したがたいしてビルマ戦の戦
況に貢献することのないままイギリス軍機の爆撃で使用不能になり、パドカン製糖工場も
工場としての体をなさなくなった状態のまま終戦を迎えた。

1955年、スルタン・ハムンクブウォノ九世がパドカン製糖工場を再建して名称をマド
ゥキスモと変えた。日本軍政のあと引き続いて起こった対オランダ独立闘争のために民衆
の経済生活は悲惨のどん底に落ち込んでおり、その時期には領民の経済生活の立て直しが
急務になっていた。製糖活動が膨大な雇用を必要としている点に着目したスルタンのイニ
シアティブでパドカン製糖工場がマドゥキスモ製糖工場として復活し、砂糖生産が再開さ
れたのである。[ 続く ]