「留学史(28)」(2022年11月10日)

時事ニュースに登場した日本がイメージ作りに一人歩きしたのとは別に、東インドに在留
する日本人の一挙手一投足も東インドのプリブミに日本の印象を刻み込んだ。逆に見るな
ら、日本に関する情報はほぼそこに限定されているばかりで、それ以上のなじみ感がなか
なか持てない存在だったという言い方も可能だろう。

1940年には蘭領東インド在留日本人が8千人まで膨れ上がっていた。日本人とプリブ
ミとの接点はたいていがトコジュパンや写真館あるいは床屋などの商売を通してのものが
多かったようだ。トコジュパンについては、
「トコジュパン(前)」(2019年11月18日)
http://indojoho.ciao.jp/2019/1118_1.htm
「トコジュパン(後)」(2019年11月19日)
http://indojoho.ciao.jp/2019/1119_1.htm
をご参照ください。


1930年代ごろから、東インドの市場にメイドインジャパンの商品が目立つようになっ
てきた。衣服・紙と紙製品・文房具や学用品・自転車などが輸入されてトコジュパンで販
売された。なにしろ値段が廉かったから、東インドの中流層から一般庶民層にいたるまで
が日本製品を好んだ。子供向けセーラー服、小鳥印の鉛筆、パイロットやセーラーブラン
ドの万年筆が高い人気を得た。

口中清涼剤の仁丹も世の中に広まった。その商標に描かれている提督閣下の盛装姿と商品
名のDJINTANをかけて、MHタムリンがこんなバクロニムを作った。
Djenderal Japan Ini Nanti Tolong Anak Negeri


おかげでトコジュパンは大いに繁盛し、日本から従業員を呼び寄せて規模を拡大させてい
った。もちろん下働きにはプリブミが雇用されたわけで、規模の拡大は原住民の雇用拡大
につながったのだが、政庁は外国人就労に規制をかけて現在のインドネシア政府が行って
いるような原理と手続きをこの問題に適用した。

外国人が就労目的で在留する際には、その入国許可を得るために役所にそれが外国人でな
ければならない必然性を雇用主が説明して了承をもらわなければならなかった。交代には
容易に許可がおりたが、増員は決して容易でなかった。


ヌサンタラのたいていの大きい町にはトコジュパンがあった。チヨダ、ニッポンカン、タ
ナカ、ヤヨイ、ミツリン、キダなどの看板を掲げ、たいていが雑貨店であり、売られてい
る品物は廉価で、しかも店内の雰囲気は明るく、日本人店員は誰にでも元気よく応対し、
プリブミに対しても敬意と親しさを示してくるのでプリブミが好む店になっていた。

バンドンで有名な日本人の店は中央官庁街にあるコンコルディアの向かいのキノシタ写真
館だった。スムダンのチマラカには日本人がオーナーの織物工場があり、オーナーはサト
ーという名前だった。ガルッでは日本人がバス会社を経営し、またキャベツやトマトなど
の野菜販売店も営んでいた。スマランにはオガワという薬局があり、また輸入電気製品を
販売するカシマヨーコーもあった。

それら日本人事業者の子供たちの中にELS、MULO、HBSなどに入学する者がいて、
オランダ語が達者になるとバンドンの工学高等学校、バタヴィアの法律高等学校や医学高
等学校で学ぶ者たちも出た。


バンドンでは、日曜日の夕方になるとトコジュパンの日本人たちがトゥガルガ広場でしば
しば野球の試合をする姿が見られ、野球というスポーツにあまりなじみのないプリブミた
ちも観戦を楽しんだ。

1934年にはバンドンの小学生を無料招待して、日本の観光名所を紹介する映画の上映
が市庁舎前広場に面した映画館オリエンタルで行われた。フジヤマ登山、日本の一般的な
家庭生活、日本料理店での食事風景などの映像を大勢のプリブミが観賞した。[ 続く ]