「留学史(29)」(2022年11月11日)

当時の中等学校に該当するAMSの野球対抗試合が1940年にヨグヤカルタで行われた
とき、マリオボロ通りにあるトコジュパンの店員のひとりがたまたまそれを見物していて、
ゲームが終わると同時にグランド内に入り、ピッチングのコーチを始めた。たいていはム
ラユ語で説明しながらときどき英語を織り交ぜていたが、理数系AMSではムラユ語が教
えられていなかったために説明はあまり有効でなかったようだ。

しかしかれが実演して見せる投球のすばらしさに、ピッチャーと体育教師はただただ茫然
とそれを眺めるばかりだったそうだ。それはゲームを見物に来たプリブミたちにも伝わっ
て、全員の目がその日本人の一挙手一投足を憧憬のまなざしで眺めていた。


20世紀に入ってから進められた倫理政策の一環として東インドのプリブミに対する教育
制度が実施されるようになり、中でもプリブミエリートたちはELSとHBSでの12〜
13年間の教育でオランダ語を身に着けるようになったから、かれらがその先の高等教育
のためにオランダに留学する条件がおのずと形成されていたわけだ。オランダが宗主国で
あるということ以上に、実用的な条件がプリブミ青年たちをヨーロッパに導いたというこ
とが言えるのではないだろうか。

オランダ語は学校教育の全科目にわたって媒介語になっていたから、半ば生活言語として
の役割を果たしたように思われる。更に外国語学習課目として英語とドイツ語が教えられ
た。ただしドイツ語は1940年にオランダ本国がナチスドイツの占領下に置かれたとき、
東インドでの外国語学習課目から外された。

オランダへの留学には種々の好条件が備わっていたが、日本への留学は言葉の問題から始
まって、さまざまな苦労の多いこころみになっていたはずだ。しかし日本留学がオランダ
留学よりはるかに低コストで実現可能なことはプリブミ知識人の間でささやかれていた。
日本で普通の生活を送るための費用はひと月50〜80圓で済むと言われていたそうだ。
そのころ、東インドでの下級職員の月給は200〜350フルデン、上級職員になれば6
00〜1000フルデンの月俸が相場だった。

その時代の日本円対米ドル交換レートは、ある資料によると1930年が2.03円、1
935年3.50円、1940年4.27円となっている。1938年のフルデン対米ド
ル交換レートは1.82フルデンだった。そうすると日本円はフルデンの半分程度の価値
だったことになる。東インドに住むひとびとにとって、日本は廉い国だったと言えるので
はあるまいか。


植民地支配からの離脱を理想に掲げるプリブミ知識層は日本への接近を、インドネシアの
将来を形成する方策の中のひとつのアイデアとして置いていた。スタン・シャッリルが流
刑先のバンダネイラから妻に当てて書き送った1936年ごろの手紙の中に、次のような
文章がある。

われわれの民族主義者たちが日本に対する関心をますます高めているのは、何も不思議な
ことでない。というのも、昨今、白人支配下の現状に対する不平不満が一層高まりつつあ
る一方、それを抑圧しようとする統治者からの力も当然強さを増している。そんな状況下
にあるわれわれの目に、日本が朝鮮半島に自治権を与えたことがひとつの涼風感をもたら
しているのだ。もちろん日本のその政策がアジア諸国からの精神的支持を得ようとする企
図のもとに行われた可能性を否定しないにしても。

わたしは想像もしていなかったのだが、日本はわれわれインドネシアプリブミの一般庶民
・中流層・民間社員までをもかれらのシンパにしてしまっていた。シンパになったひとび
とは自分の子弟を日本に送って留学させたり、あるいは文化を身に着けさせようと考えて
いる。ここ数年、休暇旅行の目的地を日本にすることが流行になっているではないか。
[ 続く ]