「甘くて苦いジャワ砂糖(11)」(2022年11月10日)

工場ではサトウキビ破砕機の動力源を蒸気機関にした。土中に釜が埋め込まれ、サトウキ
ビの搾りかすを燃料にして水を沸騰させる方法で高圧蒸気を生み出す。その蒸気で破砕機
に繋がる軸を動かし、軸がピストン運動することで破砕機が回転する。そのシステムがい
まだに使われているのだ。更に機械を構成している主要部品も最初のオリジナルのままで
あり、取り換えられたことがない。

その釜とシステムを動かすのにオペレータから火焚き人夫まで総勢20人が取りつく。そ
うやって得られる蒸気圧は8kg/?。新しい製品なら7人で動かせ、得られる蒸気圧は1
7kg/?に達するというのに。

カニゴロ製糖工場も、近隣のサトウキビ農園と工場を結ぶ鉄路を設けて蒸気機関車でロリ
ーをけん引した。作業期になると1830年ごろのドイツ製蒸気機関車が今も11台、老
骨に鞭うって活躍している。


それら開放経済下に作られた製糖工場よりもっと古い、栽培制度時代に設けられた製糖工
場のひとつが、スラバヤに近いシドアルジョ県のPG Krianだ。植民地政庁が1839年に
設立した。

栽培制度下に農民が収穫したサトウキビを買い集めた仲買人がそこへ運び込んで砂糖が作
られ、作られた砂糖がスラバヤのタンジュンペラッ港から船積みされたように思われる。
クリアン製糖工場のサトウキビ処理能力は一日1千トンしかなく、スラバヤ周辺のサトウ
キビ栽培がそれほど大量でなかったことを推測させてくれる。

そんな小規模だったにもかかわらず、大恐慌や日本軍政、更にはオランダ資本国有化を乗
り越えて20世紀が終わるまで生き延びてきたというのに、経営を管掌する国有第10ヌ
サンタラ農園会社は2001年に工場閉鎖を実施した。

スラバヤの大都市化によってシドアルジョまでスプロール現象が広がり、周辺農地がどん
どん住宅や道路に転換されてサトウキビの姿が掻き消えてしまったのである。


やはりスマランから近いクンダル県チュピリン村にPG Cepiringが設けられた。1835
年に植民地政庁が開いたもので、当時の製糖工場は蒸気機関をサトウキビ破砕の動力にし
ていたから、水の便が工場建設場所の決め手になったようだ。また製品の港への輸送路も
重要な要素のひとつだったことだろう。

チュピリン製糖工場はダンデルス総督の記念碑である大郵便道路(現在の国道一号線でジ
ャワ島北岸街道とも呼ばれている)の少し北側に位置して建てられ、ボドリ川の河口から
水上を通って到達できる位置にある。

チュピリン製糖工場は1894年に政府から民間会社に売却され、クンダル製糖工場運営
会社がオーナーになった。その後世界大恐慌がもたらした砂糖の大不況に襲われて多くの
製糖工場が倒産したものの、チュピリン製糖工場はその嵐を耐え抜いて生き延び、オラン
ダ資本国有化を経てインドネシア国有事業体ヌサンタラ砂糖産業(株)の傘下工場として
営々と砂糖生産を続けている。クンダル県には通歴で製糖工場が四つ作られたが、長い歴
史の荒波を乗り越えることのできた工場は最古参のチュピリンだけだった。


1840年には中部ジャワ州クドゥス県レンデン郡にPG Rendengが建てられた。クドゥス
県には通算して三つの製糖工場が建てられたが、生き残っているのは最初に建てられたこ
のレンデン製糖工場だけだ。設立当初はNV Mirandolie Voute & Coが公式名称で、通称が
レンデン製糖工場だった。ミランドリフォウテ&Co株式会社はオランダのハーグに本社を
置いていた。[ 続く ]