「甘くて苦いジャワ砂糖(12)」(2022年11月11日)

製糖工場が建てられると、工場管理者、技術者、作業監督者などのヨーロッパ人が定住す
るようになる。工場近くにヨーロッパ人居住地区が作られ、ヨーロッパ人好みの住宅構造
がプリブミたちの目を引いた。寄棟屋根と正方形の家屋建物。窓と扉は大きくて、しかも
二重構造になっている。そして家の中には平板の天井が張られた。プリブミはそんな家屋
をrumah sinder, rumah tebu, rumah lojiなどと呼んだ。 

ブレが徘徊してクドゥスの田舎町に国際化の幕開けが訪れた。するとそこに商機を見出し
た華人も集まって住むようになる。華人たちはたいてい製糖工場とプリブミの間を仲介す
るビジネスを行った。商業や流通業といったところだろう。

製糖工場ができた余波で住民たちもサトウキビを搾って結晶を作ることを小規模に行うよ
うになったから、クドゥスは砂糖の町になった。今でこそクドゥスはクレテッタバコが郷
土産業になっているが、タバコ産業が興る前は砂糖の町だったのだ。クレテッタバコが甘
いのはそのせいだろうか?

レンデン製糖工場が植民地時代に黄金期を紡ぎ出したのは、肥沃な広い土地、豊かな労働
力、廉い地代、優れた工場設備の賜物だったと工場管理官は語る。灌漑の行き渡った広範
なサトウキビ農園があり、レンデメンは12%という高い数値を維持することができた。
現在のレンデン製糖工場に入って来るサトウキビは、水田とトウモロコシ畑に使われなか
った土地で育ったものだ。サトウキビ畑はレンバンやブローラなど6県に分散していて総
面積は5千Haほどしかない。レンデメンは7%そこそこで、悪い年にはそれを下回ったこ
ともある。年間生産量は2.4万トン前後だ。

日本軍がジャワ島を占領したあと、すべての非同盟国ヨーロッパ資産が接収される中でこ
の会社はRendeng Sitocho Kabushiki Kaishaと名を変えた。日本の敗戦によって日本軍政
監部の手中にあった資産の数々が新生インドネシア共和国に引き継がれ、レンデン製糖工
場もインドネシア人の管理下に置かれた。

1947年にリンガルジャティ協定が成立し、レンデン製糖工場は蘭領東インド文民政府
NICAの手に戻された。オランダとインドネシアの武力抗争状態が終結してから、レン
デンはインドネシアで操業するオランダの製糖工場のひとつになったものの、1958年
にスカルノ政権がオランダ資産の接収を行ったために再びインドネシアの工場に逆戻りし
た。そして今、レンデン製糖工場は第9ヌサンタラ農園会社傘下の一工場として砂糖生産
に励んでいる。


20世紀に入ってからもジャワの製糖産業は成長を続け、20世紀の最初の30年間にジ
ャワは砂糖生産の黄金期を迎えた。国内消費量は年間20万トン程度であり、国内需要を
満たしたあとは作れば作るだけ輸出に回すことができた。そして輸出すればするほどそれ
を仲介するオランダ本国が潤った。

1928年の製糖工場数は178、翌29年164、1930年に179というデータが
いくつかの記事から得られた。年間砂糖生産量は1929年が290万トン、1930年
は219万トンとなっていた。1930年代というのは世界の経済に大変動が起こった十
年間だった。ジャワの砂糖もそれから逃れるすべを持たなかった。

1933年の生産量は140万トン、翌34年63万トン、1941年155万トンとい
う落差の激しい上下変動が起こっている。1941年の輸出量は138万トンだった。
[ 続く ]