「留学史(30)」(2022年11月14日)

1937年8月19日付のバンダネイラからの手紙にも、こう書かれてあった。
この地で日本はますますポピュラーになっている。インドネシア民衆の日本に対する人気
と支持が将来日本におおきな恩恵をもたらすだろうことをわたしは疑わない。

いや、この島だけでなく、全インドネシアの津々浦々に至るまで、民衆は日本の強さを確
信している。そしてオランダがそれに太刀打ちできないことまでも。ジャワには何世紀も
前から語られてきた予言がある。白人の統治が終わった後、北からやってくる黄色人の統
治が百日間続く。その黄色人とは日本のことだ、と民衆は言う。

日本人はあらゆる面において白人をしのいでいる。どれほど巧みな宣伝を行っても、その
事実を覆すことはできない。そもそも日本がインドネシア民衆の支持を得たのは宣伝から
ではないのだ。日本人が日本人として行ってきた行為・態度・姿勢・振舞いがインドネシ
ア民衆の心を勝ち取ったのだ。他者への敬意に満ちた姿勢と振舞い、純朴で邪気のない表
情。たとえかれらが微笑みを顔に浮かべなくても、見る者にはその姿が微笑みに見えてく
る。インドネシア人は日本人を有徳の人種だと思っている。

ハッタ君も最近日本への支持を明らかにするようになった。ジャワにいる民族主義者たち
もみんなそうだ。みんなはただ、それを公然と表明しないだけなのだ。


とはいえ大多数の東インドプリブミ青年たちにとっては、海外留学はヨーロッパが常識に
なっていて、日本留学というのはよほど特殊な環境にいるプリブミ青年にしかその動機が
起こらなかったようだ。そんな状況下に、数少ないとはいえ、太平洋戦争勃発前の日本に
留学した者もあったのである。その数は決して少ないとは言えない。メインストリームで
あるオランダへ、そしてヨーロッパへの道をたどらなかったその時代の日本留学生は、概
して強い政治意識の中にいた。

インドネシアの独立形態に関して、知識人民族主義者層は当然のように二極化した。対オ
ランダ非協力・異民族の干渉のない純民族独立を求めるスカルノやオランダ留学生でイン
ドネシア協会経験者たちと、オランダと協調しオランダの傘の下での独立を目標にするM
Hタムリン、スタルジョ・カルトハディクスモ、オット・イスカンダルディナタたち年上
で中道的なひとびとだ。日本を留学先に選んだ青年たちの心がどちらに傾いていたかは言
うまでもあるまい。


1933年、ユスフ・ハサン、アブドゥル・マジッ・ウスマン、ガオス・マッユディン、
ルスリたち日本留学生は、留学生相互支援のための組織Serikat Indonesiaを発足させた。
1938年にこのインドネシア連盟は一層の充実化を図って枠を広げ、ビジネスやその他
の目的で日本に住んでいるインドネシア人をも呼び込んだ。そのとき参加したビジネスマ
ンの中に、後に大阪外国語大学でインドネシア語学科客員教授を務めたイスマイル・ナシ
ルもいる。

イスマイル・ナシルはある商事会社の日本駐在員として1933年6月にメダンを発った。
当年21歳のことだった。その前、かれはメダンの新聞Pewarta Deliの記者をしたことも
ある。ところが1936年に天理大学でインドネシア語を教えるようになった。

すると国立の大阪外国語大学から声がかかって、1938年から国立大学の教壇に立つよ
うになった。そのころ大阪外大ではマレー語という学科名称が使われていたので、ナシル
はそれをインドネシア語に変更するよう提案したが、その実現はインドネシア共和国独立
まで待たねばならなかった。だいぶ後になって1971年にナシルは京都産業大学でも教
鞭をとるようになった。関西地方ではその三大学がインドネシア語教育のメッカになって
いた。1980年以前に関西地方でインドネシア語を学んだ日本人はたいていナジール先
生の指導を受けたことがあるはずと思われる。[ 続く ]