「甘くて苦いジャワ砂糖(13)」(2022年11月14日)

30年間の成長を支えるためのサトウキビ作付面積も増加の一途をたどり、1929〜1
931年のサトウキビ栽培用地面積は総灌漑面積の6%を占めた。その半分は農民の所有
地、あと半分はヨグヤカルタとスラカルタの王家からの借地だった。

その後の経済大恐慌が砂糖国際価格を暴落させたため、1934年にはわずか50工場が
稼働していただけであり、30年代末まで生き残っていたのは35工場のみで、年産は5
0万トンにまで落ち込んだ。

1928年に製糖業界が雇用していた人数は129,249人だったが、1934年のデ
ータでは28,632人しかいない。ジャワの農園労働者はほとんどが製糖産業従事者だ
ったのである。


1940年代に入ると市況は多少好転した。ジャワ島で稼働する砂糖工場の数は93に増
え、150万トンの生産が上がった。ところが太平洋戦争の勃発でインドネシアは日本軍
に占領され、大戦争の中での砂糖生産と輸出などは思いもよらないものになった。

いや、それ以上に、日本軍政がジャワ島で行った農業統制では軍需用食糧としての米、そ
して燃料・潤滑油のためのトウゴマ栽培が大優先され、それが全国的な規模で行われた結
果、砂糖生産は日の当たらぬ片隅に追いやられてしまった。そのトウゴマ栽培大作戦の様
子は下のページをご参照ください。
「知能的な日本軍政(前)」(2019年10月10日)
http://indojoho.ciao.jp/2019/1010_1.htm
「知能的な日本軍政(後)」(2019年10月11日)
http://indojoho.ciao.jp/2019/1011_1.htm

そんな状況だから砂糖の生産に本腰の入るはずもなく、おまけに軍事用として製糖機械類
の部品や線路および工場内の鉄材がむしり取られる始末で、製糖工場は戦争遂行のために
ていよく利用されるありさまになった。太平洋戦争が終わったとき、生き残っていたのは
30工場だけだった。


ジャワ砂糖の黄金期に砂糖王の玉座に着いた華人がいる。アジア最大の私企業になったウ
イ・ティオンハム・コンツェルンの総帥ウイ・ティオンハム氏だ。スマランに本拠を構え
たが、香港・ロンドン・ニューヨークなどにも拠点を置いて世界を股にかけるビジネスを
行い、没後2億フルデンという巨額の資産を残した。そのため、上海からオーストラリア
までのエリアでかれに優る金持ちはいないという賛辞をデロコモティフ紙はかれに捧げて
いる。

黄仲涵は1866年11月19日にスマランで生まれた。父親の黄志信は福建省同安から
東インドに移住してきた人物で、スマランで華人プラナカンの娘を妻にし、家庭を持った。
妻は華人コミュニティ社会の中流層出身だ。この夫婦には8人の子供ができた。ティオン
ハムは二番目の子供になる。


父親のウイ・チーシエンは1863年に農産物を取り扱う事業を起こし、建源桟商行とい
う公司名を付けた。ティオンハムは1893年にキアンクワンチャン商行の経営を父から
譲られ、後に企業登録を行ってHandel Maatschappij Kian Gwanに変身させた。

ティオンハムが事業を引き継いでから、キアンクワンチャン商行の取扱い品目はカポッ綿
・ゴム・ガンビル・タピオカ・コーヒーなどと多種に広がり、それ以外にも質金融・郵便
・伐採なども手掛けた。中でも父親の代から行っていたアヘンの取扱いが最大の利益を上
げ、1890年から1904年までの間に1千8百万フルデンの利益がアヘンから得られ
たそうだ。その金がウイ・ティオンハム・コンツェルンの礎石になった。このコンツェル
ンは20世紀初期の東南アジアで最大の企業体であると評された。[ 続く ]