「留学史(31)」(2022年11月15日)

ナシルがインドネシア語とインドネシア文化の普及啓蒙の道に転身した動機をアイップ・
ロシディに語ったことがある。あるとき、かれは大阪外大の外大際を見物していた。各語
学科の学生たちが自分の学んでいる言語国の文化を紹介するために扮装してパレードを行
っている。マレー語学科の学生たちがやってきたとき、その姿を見てかれは驚いた。褌ひ
とつの裸で顔にまだらの色を塗り、頭に何かわけのわからないものを着けて、奇妙な叫び
声をあげていたのだ。

かれの心は自分が進むべき道を命じていた。インドネシア語を学びたい日本人とかれらを
指導している教官に、正しいインドネシアの姿を教えなければならない。その思いがかれ
を天理大学に向かわせたにちがいあるまい。ナシルは1982年12月1日に大阪で世を
去り、神戸の外国人墓地で永眠した。


アブドゥル・マジッ・ウスマンは日本で4年間政治学を学んだ。かれは東京のパンアジア
運動本部の委員のひとりになり、あるとき行われた大会の中で独立インドネシア代表者と
してスピーチを行い、紅白旗を国旗として飾った。祖国はまだオランダの植民地であると
いうのに、かれ自身は既に独立インドネシアの中にいたのだ。

日本女性を妻にして故郷のパダンに戻ったウスマンはイスラム色の強い風土の中でモダン
イスラム層に歓迎され、モハマッ・ヤミンもかれを全面的にバックアップした。


インドネシア独立運動の活動家やリーダーたちが友好親善や観光目的で日本を訪れるよう
になっていった裏側にインドネシア連盟の存在が強く感じられる。若いころにオランダに
留学したひとびと、オランダでインドネシア協会の運営に携わったひとびと、ブディウト
モ運動指導者、東インド国民議会メンバーたちが相次いで日本へ旅行するようになった。

そのような動きが植民地統治者の神経を逆なでしたのも当然だ。ただでさえオランダ支配
を覆そうと画策している反抗者たちが日本をそこに引きずりこめば、たいへんな事態に至
るだろう。民族運動活動家に対する締め付けがエスカレートした。その反動的な姿勢が中
道的だったひとびとの心を離反させる結果を招くことになったものの、強硬派の東インド
植民地総督はそんなことを意にも介さなかった。

モハンマッ・ハッタは1933年に日本を訪れ、アッマッ・スバルジョは1935年にシ
ティ・ラティファ・ヘラワティとサプタリタの姉妹が日本に留学するときに付き添って訪
日した。そのときの日本行にはヘラワティの母も同行していた。スバルジョはそのあと一
年間日本に滞在して、翌年9月に帰国している。

他にも国民議会メンバーのスカルジョ・ウィルヨプラノト、パスンダン党支部長イヨス・
ウィリアアッマジャが1936年に、そして1937年にはブディウトモ指導者ドクトル
ストモ、スヨノ・ヘンドラニンラ王子などが続いた。

1933年にはパラダ・ハラハップを団長とする、7人から成る通商使節団が日本を訪れ
た。後に日本軍政下に設立されたPETAの立ち上げに尽力したガトッ・マンクプラジャ
もそのときの団員のひとりだった。


1942年3月1日に今村中将指揮下の大日本帝国陸軍第16軍と共にジャワ島のバンテ
ンに上陸したスジョノは日本留学生ではない。かれはオランダのレイデンで法学の学術称
号メステルインデレヒテンを得たオランダ留学組だ。同じルートを歩んだアッマッ・スバ
ルジョの目は、インドネシア協会の役員を務めたスジョノを対オランダ非協力の硬派だと
見ていた。スジョノは大柄な男っぽい男性で、高い文明度を身に着けた優美な人となりを
常に示し、粗野な姿を他人に見せることをしなかったとかれの友人たちは評している。

オランダ留学から東インドに戻ったスジョノは北スラウェシのマナドで法律家の仕事を始
めたが、すぐにそこでの仕事がいやになった。そんなとき、かれに転職の誘いが舞い込ん
だ。東京の外国語大学でマレー語を教える仕事だ。1931年、かれは単身で東京に赴い
た。1933年になってスジョノはジャワで妻をめとり、新婦を伴って東京に戻った。か
れの妻は社会的に著名な医師ラデン・ラティップの娘レッノワティだった。ラデン・ラテ
ィップの妻であるシティ・アリマはアッマッ・スバルジョの姉であり、つまりスジョノは
スバルジョにとって姪の夫になる。スバルジョが東京に一年間滞在したとき、スジョノは
スバルジョと日本人名士たちとの顔つなぎに奔走した。[ 続く ]