「甘くて苦いジャワ砂糖(14)」(2022年11月15日)

当時の華人ビジネスは相互の信用を重んじる風習が濃く残されていて、事細かに契約書や
約定書を作るのは大班のすることではないという雰囲気が強かった。ティオンハムはその
風習に倣わずに西洋式のビジネス姿勢を執った。かれは華人コミュニティの中でビジネス
ライフを送ることを最初から拒否していたのかもしれない。

ティオンハムが砂糖に関りを持ち始めたのは製糖工場オーナーへの金融が発端だった。返
済が焦げ付けば、質に入った工場の所有権が移動する。そんな形でティオンハムはいつの
間にか5つの製糖工場の所有主になっていた。パティのパキス、マディウンのロジョアグ
ン、ジョンバンのポネン、シドアルジョのタングラギン、マランのクレベッ製糖工場だ。

製糖事業がキアンクワンのビジネスの一角を占め始めたとき、ティオンハムは砂糖輸出の
包括的合理化を推し進めた。サトウキビ農園〜製糖工場〜港への製品輸送〜海上輸送〜銀
行、そしてその流れに関わる諸サービス。多角化されたその諸ビジネスを統括する人材に
ティオンハムはその道のプロを起用した。華人社会の習慣である、広がったビジネスの間
口のそれぞれの扉に必ず一族の人間を置いてその部門をファミリービジネスにしていく方
式をかれは取らなかったのである。一族の人間はキアンクワンで昔から行われてきたビジ
ネスの扉に配置されただけだった。


20世紀の最初の20年間、砂糖の黄金時代の追い風を受けてティオンハムコンツェルン
は目覚ましい発展を遂げた。バタヴィア・スラバヤ・ジョグジャ・ソロなどの国内は言う
に及ばず、ロンドン・アムステルダム・シンガポール・イポー・ペナン・バンコック・ニ
ューヨークなどに支店やオフィスを開いて世界の貿易ルートを掌握し、銀行業や海運業か
ら流通小売り業にまで進出した。

既に東南アジアで名を挙げていた華人コングロマリットをはるかに抜き去り、東インドに
関わっている5大オランダ商事会社と引けを取らないどころか、その上を行っているとま
で評された。1912年にはキアンクワンに1千5百万フルデンの増資がなされて、オラ
ンダの商事会社インテルナシオの資本金の二倍になった。


1920年、ティオンハムはスマランを去ってシンガポールに移住した。巨額の納税を嫌
ったためだそうだ。また遺産相続の便をも考慮した結果だということも言われた。移って
からほどなく1924年にティオンハムはシンガポールで没した。この大金持ち大家族の
中に一家の主が毒殺されたという憶測を語った者もいた。遺体はスマランに運ばれて父親
の墓の隣に永眠した。頭領没後の巨大事業はどうなっていっただろうか?

ティオンハムから子供たちへの遺産相続がなされ、子供たちが事業を引き継いで活動して
いたとき、1961年にインドネシア共和国政府がティオンハムの全財産を没収した。イ
ンドネシアの商業裁判所がウイ・ティオンハムコンツェルンの解体を命じ、全資産が国に
没収されたのである。製糖工場とサトウキビ農園は政府が作った国有事業体ラジャワリヌ
サンタラインドネシアがその経営を引き継いだ。コンツェルンの国外支店や事務所はティ
オンハムの息子たちが経営する独立会社になった。


ティオンハムは生涯で8人の妻妾を持った。最初の妻とはかれが15歳の時に親の命令で
結婚したそうだ。最初と二番目からは女児ばかり生まれ、最初の男児が得られたのは三番
目の妻からだった。かれの実子は男児13人女児13人。

その大家族が住むためにスマラン南部のグルガジ地区に92Haの地所を買って、そこに豪
奢をきわめた御殿や建物群と広大な庭園が設けられた。地所の一画を埋めた豪勢な建物群
に各妻妾とその家族が個々に住んだ。小さい子供は、付添いの大人なしに自分の家から離
れて遠出をしてはいけない、と定められていたらしい。子供が道に迷って帰れなくなった
ら、それを探しに行く大人にとってもきっとたいへんな仕事になったことだろうと推測さ
れる。[ 続く ]